クリュア(Cruas)

2023年9月25日(月)の最後、五番目に訪れたのはCruas、Abbatiale Sainte-Marieです。

ここCruasは、2023年夏🌻の旅行の最後の地です。

ここは、上部教会ではモザイク、身廊では柱頭彫刻、トリビューン下階では柱頭彫刻と楔石、地下聖堂では柱頭彫刻。見逃すことのできない傑作がいっぱいです。

2023年、教会は以下の日程で開いていました。
11月~3月:月曜~金曜 9:30~12:30と14:00~17:00
4月~6月と9月〜10月:月曜~土曜 9:30~12:30と14:00~17:00
7月〜8月:月曜~土曜 9:30~12:30と14:00~17:00、日曜は 14:00~18:00

トリビューン下階と地下聖堂の見学には鍵が必要でした。鍵は正面にあるOffice de Tourismeで借りられました。有料(€3)です。

目次

1. Cruas へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観 .
5. 内観(上部教会) .
6. 内観(トリビューン下階) .
7. 内観(地下聖堂) 
2023年夏🌻の旅行の終わりに ..

1. Cruas へ

クリュア(Cruas)は、フランスのオーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏アルデシュ県にある村で、アヴィニョンの約78km北、プリヴァ(Privas、アルデシュ県の県庁所在地)の約16km南東にあります。

北西側外観

私は正面にあるOffice de Tourismeで鍵を借り、教会に向かいました。

教会の中には、北扉口から入ります。

2. 概要

Office de Tourismeで小冊子をもらいました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

数世紀にわたる歴史
教会は、804年に設立されたベネディクト会大修道院の付属教会であった。大修道院は、11世紀から13世紀にかけて絶頂期を迎えた後、1741年にヴィヴィエ(Viviers)司教によって廃止されるまで、緩やかではあるが衰退の一途をたどった。

古代からの居住
考古学的発掘調査により、この場所にはガロ・ローマ時代(3世紀後半)から住居があり、5世紀には初期キリスト教の後陣を持つ建物に取って代わられたことが明らかになった。その後、ベネディクト会修道院が設立される際に、カロリング朝時代の教会が以前の建物の基礎の上に建てられた。

クリュール(Crûle)川による変貌
修道院付属教会は現在、周囲の地面よりも低い位置にある。これは、北側にある Crûle 川が何度も激しく氾濫したためであり、現在ではその川はせき止められたが、沖積土層が次々と堆積して地面が隆起した。教会の前庭と後陣は、建設当時の地面の位置を示している。

修道院教会の建設
現在の大修道院付属教会は、11世紀から13世紀にかけて、東から西へと四つの段階を経て石灰岩を使って建てられた。主に修道士のために設計されたが、信者やコンポステーラ巡礼路の二次ルートで通過する巡礼者も収容された。3階建ての教会を建設し、その上階を修道士専用としたことで、この二つのグループを別々に収容することが可能になった。元々、この建物は修道院の建物に囲まれていたが、現在は修道院の建物は完全に姿を消している。

「3階建て」というのは、下部教会、上部教会、13世紀に建てられ聖ミカエルに捧げられた修道院長の礼拝室(Chapelle seigneuriale)の3層構造を意味していると思います。

放置された修道院
大修道院の困難は14世紀から15世紀にかけて始まった。百年戦争の影響を受けた。時折、修道士たちは修道院を出て、要塞化されたサン=ブノワ(Saint-Benoît)礼拝堂に避難した。16世紀から17世紀にかけては、宗教戦争による荒廃に見舞われ、大修道院にとってより大きな問題となった。ヴィヴァレ(Vivarais)地方では、カトリックとプロテスタントの対立が激しく、この大修道院はカトリックの拠点とみなされた。何度も襲撃を受け、回廊と修道院の建物が破壊された。修道士たちは身を守るために再び修道院を出て避難した。

再発見されたトリビューン(Tribune)の下階
16世紀の初め、宗教戦争のために避難する前に、修道士たちはクリュール(Crûle)川の氾濫から守るために、身廊の一部を壁で囲んだ。残りの保護されていなかった部分には、土砂が堆積した。16世紀末に修道士たちが戻ってくると、1メートル以上もある堆積物を取り除くのではなく、トリビューン(Tribune)の高さまで土、石や生石灰で埋めた。この地面の高さを示す柱には、今でも黒い痕跡が残っている。トリビューン(Tribune)の下階は壁で囲まれ、扉で出入りできるようになっていたが、その機能は忘れ去られ、第二の地下聖堂とみなされるようになった。1970年代に堆積物が取り除かれ、元の状態が再発見された

小冊子による断面図です。東が右。「Tribune Monastique」と示されている部分がトリビューン、そして「Remblai」と示されているのが修道士たちが(堆積物を取り除くことなく)埋めた盛り土です。

小冊子より(断面図)

1741年、ヴィヴィエ司教によって修道院は組織として弾圧された。 最後の修道士はフランス革命の最中に姿を消し、修道院は1794年にようやく国有財産として売却された。現在、教会は見学やコンサートに開放されているが、カトリックの礼拝の場であることに変わりはない。

この後も、小冊子を引用する時に太字で書きます。

3. 平面図

小冊子による平面図です。東が上です。

三身廊に柱間が五つあります。第1柱間から第2柱間は概ね12世紀後半、第2柱間から第5柱間は概ね11世紀末から12世紀前半、地下聖堂(交差部から後陣)は11世紀の建築です。

小冊子より
小冊子より、上部教会

③身廊(Nef)
④トリビューン(Tribune monastique)
⑤地下聖堂(Crypte)
⑥交差部と聖域(Transept et sanctuaire)
⑦聖ミカエル礼拝室(Chapelle Saint-Michel)

4. 外観

東側に行きます。

東側外観

後陣の基礎部分が、11世紀の建設当時の地面の位置を示しています。クリュール(Crûle)川の氾濫と土砂堆積の影響を実感します。

5. 内観(上部教会)

北扉口から入ると、そこは、上部教会の北側廊です。

上部教会の身廊に行きます。

上部教会の身廊にて東を向く

上部教会で注目したいのは、クワイヤのモザイクと、身廊の柱頭彫刻です。(祭壇もロマネスク期のものですが、詳細は割愛します。)

クワイヤのモザイク

祭壇の背後には、12世紀初頭のものと思われる、当初はもっと大きかったモザイク画(k)がある。これは、1095年に修道院付属教会を聖別した教皇ウルバヌス2世の訪問を記念して作られたようだ。

訳文中のアルファベットは平面図における位置を示します。

上部教会のクワイヤ

モザイクの中央にはエデンの園が描かれ、左側には生命の木(リグナム)、右側には知恵の木(フィカス)がある。2本の木の間には、ヤコブの梯子を思わせる、5本の腕を持つ大理石の十字架がある。その下には、縦線で交差した4つのドームがあり、楽園の4つの山と4つの川を象徴している。大きな石板は、ロマネスク様式の祭壇が元々あった場所を示している。

預言者エリヤ

預言者エリヤと家長エノクが描かれている。彼らは旧約聖書の中で唯一、神によって生きたまま天に召された人物であり、その存在は頭上の祝福の手によって想起される。

家長エノク

エノク、ハンサムです。

身廊の柱頭彫刻

クワイヤから西を向きます。正面に見えるアーチの上の空間が、13世紀に建てられた修道院長の礼拝室(Chapelle seigneuriale)だと思います。

クワイヤにて西を向く

身廊の柱頭は、下部教会からは見上げる高さですが、上部教会からは目の高さです。

これらは、地下聖堂の柱頭よりも新しく、トリビューンの下階の柱頭よりも古いものである。

西側の柱頭には植物装飾が多いですが、東側の柱頭には主に幻想的な生き物たちが描かれています。

身廊の柱頭

ヒッポグリフ、グリフォン、ドラゴンなど。

身廊の柱頭

そして南側の柱頭には双頭の怪物が描かれている。その尾は鳥の頭のような形をしており、口は人間の顔(おそらく修道士)に向かって開いている。

身廊の柱頭

これらはおそらく、邪悪なものに対する警告として修道士たちの周囲に配置されているのであろう。

ということは、この柱頭が置かれるときには、ここが修道士たちの場所であることが決まっていたのでしょう。

6. 内観(トリビューン下階)

トリビューン下階に行くには、上部教会の北側廊にあるゲートを通ります。

ゲート(上部教会の北側廊)
鍵は円盤状です(鍵をロックの上に置いた様子)

Office de Tourismeで借りた鍵を使ってゲートを開けます。

まず、鍵をロックに近づけて青い丸を押します。「ピー」と2回電子音がしますから、ノブを右に回します。訪問が終わったら、同じ手順でゲートがロックされていることを確認します。

身廊から東を向きます。

下部教会の身廊にて東を向く

青🔵で示した部分が、16世紀末に修道士たちが埋めた地面の高さです。今でも黒い痕跡が残っています。赤🟥で示した部分がトリビューン下階。信徒や巡礼者の場所でした。黄🟨で示した部分は5世紀の建物の後陣の輪郭です。

12世紀に建てられたトリビューンは、おそらくこの教会の最も注目すべき建築的特徴であろう。これは、上階の修道士のための空間と、下階の信者や巡礼者のための空間を分けている。こうすることで、修道士たちは聖ベネディクトの規則で推奨されている毎日の祈りを、外部の干渉を受けずに共同で唱えることができた。フランスでは、ペルピニャン近郊のセラボヌ(Serrabone)で、この例を見ることができる。

下部教会の身廊にて南東を向く

トリビューンを支えるヴォールトは、様々な彫刻が施された柱頭を持つ円柱によって支えられている。同時期に作られたとはいえ、一人の石工の仕事ではないようである。装飾は多種多様で、植物、動物のモチーフがよく見られる。ある柱頭(d)には船乗りの結び目の形をしたロープが描かれているが、これは当時修道院教会の東500メートルにあったローヌ河の重要性を思い起こさせるものである。

訳文中のアルファベットは平面図における位置を示します。

柱頭(d):船乗りの結び目の形をしたロープ
トリビューン下階の柱頭(d)

また、聖書の引用もある。生命の木(e)と、人間の頭の周りを2匹の蛇が取り囲む「誘惑」の象徴(f)である。

柱頭(e):生命の木

生命の木はエデンの園を象徴します。

トリビューン下階の柱頭(e)
柱頭(f):人間の頭の周りを2匹の蛇が取り囲む「誘惑」の象徴
トリビューン下階の柱頭(f)

(d)(e)(f)三つの他にも、気になる柱頭がありました。三つご紹介します。

柱頭1:聖杯から飲む2羽の鳥

聖体拝領を象徴しているのかもしれません。

トリビューン下階の柱頭1
柱頭2:自らの尾をくわえる獅子たち

永遠とか復活とかを象徴しているのかもしれません。

トリビューン下階の柱頭2
柱頭3:髭面の男の顔

何か長いものを吐き出すか、飲み込むかしているようです。上に刻字があります。「ブラザー・ベオティドゥス(FRATER BEOTIDUS)」?あるいは「ベネディクト会のブラザー(FRATER BENEDICTUS)」でしょうか?

何を伝えたくてこの柱頭をここに置いたものか、謎です。

トリビューン下階の柱頭3

トリビューン下階では、ヴォールトの楔石も楽しいです。四つご紹介します。

楔石1
楔石2
楔石3
楔石4

ほとんどが幾何学的な模様なのですが、ひとつだけ獣です。大きな目で自らの尾をくわえています。かわいい。

7. 内観(地下聖堂)

トリビューンの下階を出て、東へと階段をおりると、地下聖堂です。

地下聖堂にて北東を向く

地下聖堂は、最も東に位置し、最も古いものである。11世紀のもので、二人の聖人(修道院の最初の修道士の一人であった saint Josserand とサン=ポール=トロワ=シャトー(Saint-Paul-Trois-Châteaux)の司教であった saint Torquat )の聖遺物を見に来た信者や巡礼者を収容するためのものであった。

地下聖堂にて東を向く

地下聖堂の柱頭は比較的原始的な様式で、動物(g)、葉、日輪(h)などの様々なモチーフが描かれている。

柱頭(g)
柱頭(h)

人物は一人だけ描かれている。それはオラント(i)と呼ばれる祈りの姿で、天の恵みを受けるために両手を上げて立っている。

柱頭(i)

このような祈りの姿勢は、キリスト教古代には広く見られたが、12世紀以降はあまり見られなくなった。両手を組んで祈る姿は、家臣が主君に敬意を表することに由来する服従の象徴である。不釣り合いに大きな手と頭が、崇拝の仕草を際立たせている。この石は、信者と巡礼者が触れたために磨かれた。

そうか、それでこの柱頭だけテカテカ光っているんですねえ。

Abbatiale Sainte-Marie。上部教会ではモザイク、身廊では柱頭彫刻、トリビューン下階では柱頭彫刻と楔石、地下聖堂では柱頭彫刻。見逃すことのできない傑作がいっぱいです。

〜2023年夏🌻の旅行の終わりに〜

Cruas を最後に、イタリア、スイス、フランスを巡る旅は終了しました。

翌9月26日にリヨンに移動し、リヨンの郊外で私のブログを読んでくださっている方とそのご家族にお会いしました。とても知的でユーモアあふれる優しい人たちで、夫も私も素敵な時間を過ごしました。そして、9月27日に帰国便に搭乗しました。

7月27日から61日間で198か所を巡りました。どれも、鮮やかに心に残っています。

読んでくださり、ありがとうございました。

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