ヴィグッツォーロ(Viguzzolo)

2023年9月10日(日)の最後、四番目に訪れたのは Viguzzolo。サンタ・マリア教会(Pieve di Santa Maria)です。

ここは、石積みが美しいです。主後陣にフレスコ画の断面が残り、地下聖堂もあります。

2023年、教会は、ヴィグッツォーロ文化協会(Associazione Culturale Viguzzolese)のガイドツアーによって訪問することができました。

目次

1. Viguzzolo へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観 .
5. 内観 .
6. 地下聖堂 .

1. Viguzzolo へ

ヴィグッツォーロ(Viguzzolo)は、ピエモンテ州の人口約3,000人の町で、アレッサンドリアの約25km東に位置します。

この町を代表するモニュメントのひとつが、サンタ・マリア教会(Pieve di Santa Maria)です。

北西側外観

町の中心を東西に横切る大きな通り沿いにあります。

2. 概要

教会の中に小冊子がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

被昇天の聖母(Santa Maria Assunta)に捧げられているヴィグッツォーロ(Viguzzolo)の教会は、おそらく1000年頃に建てられたと考えられている。

実際には、9世紀にはすでにヴィグッツォーロ地区に宗教的な建物が存在していた:このことは、896年に皇帝ランベルト(Lamberto)が、おそらくトルトーナ(Tortona)伯爵であったエヴェラルド(Everardo)にヴィクチオーロ(Vicuciolo)のクルティチェッラ(curticella)を与えたという文書が証明している。

この地には、大司祭を長とする組織があり、この地とその周辺に住む信者の共同体に依存していた。現在の教会は、この最初の教会(「恩寵の聖処女(Beata Vergine delle Grazie)」)の代わりに、あるいは、隣に建てられたと思われるが、その痕跡は、現在の壁の建設に再利用されたいくつかの装飾片と、その一部が内部に保存されている以外には残っていない。

内部に保存されている装飾片

最も繁栄した時代は12世紀から13世紀にかけてであったが、その後、市町村社会の発展とともに、教会はその起源を特徴づけていた中央集権性と重要性を失っていった。13世紀にはすでに、典礼を村の中心にある聖バルトロメオ礼拝堂(oratorio di San Bartolomeo)に移し、そこが教区教会となった。

ロマネスク様式の教区教会が放置される状況は、時が経つにつれて拡大し続け、ほとんど完全に廃墟と化したことが、記録から容易に推測できる。そして、さまざまな改修や修復工事が行われたにもかかわらず、教会は墓地教会としての機能しか残されなかったため、建物自体やその周辺には墓石が点在するようになった。

1924年、市が新しい墓地を建設して墓が移された後、1935年、ピエモンテ・リグーリア州王立監督官カルロ・チェスキ(Carlo Ceschi)の指揮の下、いくつかの重要な修復作業が開始された。1938年、建物は聖別され、第一次世界大戦の戦没兵士に捧げられた。教区教会の地下聖堂には奉納祭壇が設けられ、それまで町の中央広場にあった戦没者慰霊碑は、かつての墓地エリアの中央に移され、残された土地は慰霊公園となった。

この後も、小冊子を引用する時に太字で書きます。

3. 平面図

小冊子に平面図がありました。東が上です。

<上部教会の平面図>

小冊子より

<上部教会と地下聖堂の断面図>

小冊子より

<地下聖堂の平面図>

小冊子より

では、行きましょう。

4. 外観

外側について。

教区教会の見学には、建物とその様々な要素に関する建築的な詳細と、1935年から38年にかけての修復作業中にカルロ・チェスキ(Carlo Ceschi)によって書かれた文書を組み合わせるのが興味深い。

実際、この教会は、様々な時期に修正や改築を受けたが、チェスキ(Ceschi)は、漆喰を排除し、多くの手直しをすることで、農村地域におけるロンゴバルド・ロマネスク文化の表現であるこの小さな教会のオリジナルの外観を取り戻すことに努めた。

教会は、おそらく他の建築物から回収されたテラコッタの破片の間に大量のモルタルを挟み込んだ石組みで建てられている。石組みの一部には、ほぼ水平に置かれた小石が特徴的で、場所によってはヘリンボーン状に配置されている。この建築技法は、11世紀前半のいくつかの農村地域の教会に見られる典型的なもので、この教会もその時代に建てられたと推測させる要素のひとつである。

現在、ファサードは細い付け柱で不規則に区切られた盲アーチで飾られている。中央には半円形のアーチボルトを持つ扉口がある。その上にはバラ窓があるが、おそらく、小さな鐘楼と同じく、後の時代に付け加えられたものであろう。

東側には、後陣が二つあります。

南東側外観

三つの後陣のうち、オリジナルは中央のものだけで、両脇の後陣はともに崩壊していた。修復の際、チェスキ(Ceschi)は、北側の後陣を再建した。北側の後陣は、縁石の痕跡とドームのアーチが残っており、半円形の周壁があった。

石積みが美しい。

5. 内観

教会の中に入ります。

身廊にて東を向く

アーチとアーチの間には、扇形に広がるテラコッタの破片からなるモチーフがあり、教会が漆喰で塗られていなかったことを示している。

青い丸で示した部分のことだと思います。

身廊にて北側を向く(画像を編集して青丸と赤四角を加えました)

最後のアーチとアーチの間には、二つの碑文が向かい合わせに埋め込まれている。

左側の碑文はおそらく6世紀から8世紀にかけてのものである。チェスキの研究によれば、これは、亡くなったレオ・リガルーポ(Leo Ligalupo)とその息子ヨセフ(Iosep)を弔うために、公証人リケゾ(Rikezo)が聖母マリアに敬意を表して置かれたキリスト教の墓碑銘である。

赤い四角で示した部分です。

左側の碑文

身廊を挟んで向かい側にある、右側の碑文は、こちら。

右側の碑文

右の碑文は3世紀後半に書かれたものだが、こちらも不完全でわかりにくい。おそらく母親が一人か二人の子供に捧げたもので、この場所が神聖な場所であることを証明するためにここに置かれたのであろう。おそらく、ローマ時代の埋葬地に「TIA SEVERIANA」の子供たちが埋葬され、後に、公証人リケゾが碑文を依頼した現在の教会の前の教会が建てられたと考えることができる。

教会が建築された当時のものとしては、後陣にフレスコ画の断片が残っています。

主後陣のフレスコ画

11世紀のものであることは間違いない。残念ながら、現在見ることができるのは、全能者としてのキリストを表していたと思われる中央の人物の2本の足と衣の裾だけである。

キリストの両脇には二人の聖人、聖コスマスと聖ダミアンの像があった可能性がある。

荘厳なフレスコ画だったことでしょう。

興味深いのことに、主後陣の半円形の一部には、フレスコ画が隠れていたことを示す部分があります。

後陣の北東側

これは、地下聖堂が上部教会よりも後につくられた可能性を示すのだそうです。

6. 地下聖堂

地下聖堂に行きます。

地下聖堂にて東を向く

この地下聖堂の年代は、教会よりも後と考える傾向にあるものの、不確かなままである。実際、11世紀から12世紀にかけて、この地下聖堂のような類型がイタリアに広まっていたことに留意すべきである。角をピラミッド型に切り詰める形の柱頭は、11世紀の最初の数十年間にさかのぼる。地下聖堂の建設よりも後の時代に、後陣上部の壁に二つの四角い窓が強制的に開けられた。これはおそらく、地下聖堂が教会よりも後に建てられたという印象を裏付ける要素であり、上部教会の床面が高くなりすぎていることや、主後陣の半円形部分に残されたフレスコ画が床面に覆われていることは、この仮説をさらに確かなものにしている。

イタリアにこんな感じの地下聖堂が広まる中で、この教会にもつくっちゃおう、そうしよう、となって後からつくった感があるわけですな。

サンタ・マリア教会(Pieve di Santa Maria)。石積みが美しいです。主後陣にフレスコ画の断面が残り、地下聖堂もあります。

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