ロメッロ(Lomello)

2023年9月9日(土)、二番目に訪れたのは Lomello。サンタ・マリア・マッジョーレ教会(Chiesa di Santa Maria Maggiore)とサン・ジョヴァンニ・アド・フォンテス洗礼堂(Battistero di San Giovanni ad Fontes)です。

ここは、洗礼堂と教会のレンガの建物群が魅力的です。

2023年9月、教会と洗礼堂は土日の15:00〜18:00に開きました。

目次

1. Lomello へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観 .
5. 内観 .

1. Lomello へ

ロメッロ(Lomello)は、ロンバルディア州にあり、アゴーニャ(Agogna)川の右岸、パヴィアの西約29kmに位置します。このあたりがロメッリーナ(Lomellina)と呼ばれるのは、この町がゆえんです。

南東側外観

サンタ・マリア・マッジョーレ教会(Chiesa di Santa Maria Maggiore)は、町の中にあります。

私が2度目に行った9月9日(土)には結婚式が催されていました。教会の南では催事の準備が進められていました。

2. 概要

司祭館や洗礼堂に案内掲示がありました。また、管理人からリーフレットをもらいました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

ロメッロの集落は、鉄器時代からローマ時代、そして中世へと続く集落の顕著な例である。

この村の起源は時の霧の中で失われてしまったが、その名前の語源は、レヴィまたはケルトによって要塞化された村、Levi-mellumに由来すると思われる。ローマ時代、ここは重要な中継地、宿駅であった。

キリスト教が早くから伝わっていたことは、教会の近くで発見された544年という日付の石版が証明している。ロンゴバルド人はこの町を自分たちの拠点とし、教会を建て聖ミカエルに捧げた。ローマ時代の宿駅の跡地に建てられたカストルムには、洗礼堂を併設した教会があり、8世紀の歴史家パオロ・ディアコノ(Paolo Diacono)によると、古代末期とロンゴバルド時代には、テオドリンダ(Teodolinda)が後にロンゴバルド族の王となるアギルルフォ(Agilulfo)と出会った宮殿があった。10世紀には、イタリア王国の首都パヴィアの宮廷に連なるロメッロ伯爵家の居城となった。

複合施設は、サンタ・マリア・マッジョーレ教会(Chiesa di Santa Maria Maggiore、11世紀前半)とサン・ジョヴァンニ・アド・フォンテス洗礼堂(Battistero di San Giovanni ad Fontes、7~8世紀)城壁、司祭館から成る。教会は、おそらくそれ以前の建物の上に建てられたもので、ロンゴバルド・ロマネスク様式の特徴を示している。

案内掲示より

1155年、ロメッロの要塞はバルバロッサによって放火された。1315年、ロメッロはヴィスコンティに占領され、緩やかな衰退が始まった。

17世紀から18世紀初頭にかけてのバロック様式への改修は、司祭館の建設と教会内部の改築を伴うもので、ロマネスク様式の絵画装飾や漆喰装飾は修復不可能なほど損なわれた。

1940年代から1950年代にかけて、建築家ジノ・キエリチが指揮を執った複合施設の抜本的な修復では、教会と洗礼堂の本来の姿を取り戻すために、後代の装飾がすべて取り除かれた。

司祭館に、漆喰装飾の一部を復元した展示がありました。

3. 平面図

ゾディアック(Zodiaque)la nuit des temps の『Lombardie romane』(以下「Zodiaque」)による平面図です。東が右です。

教会(Zodiaqueより)

現在の北小後陣は20世紀の創作物のようです。

ジャカ・ブック(Jaca Book)PATRIMONIO ARTISTICO ITALIANO『LOMBARDIA ROMANICA VOL I』(以下「Jaca Book」)によると:「東側には北小後陣が復元されている。1761年以前に消失しており、その年の土地図面には、すでに北翼廊の東端が長方形に描かれている。北小後陣は、20世紀の修復の際に、事前の考古学的調査なしに完全に作り直されたものである。」

洗礼堂(Zodiaqueより)

さて、見学しましょう。

4. 外観

私は9月5日(火)と9日(土)の2度にわたって教会を訪れました。外観の写真の一部は5日(火)に撮影したものです。

洗礼堂は、教会より1.5メートルくらい低い位置にあります。

洗礼堂:南東側外観

Zodiaqueによると、「洗礼堂の屋根の中央には、小さな鐘楼のような不思議なランタン・タワーが聳えている。これは、おそらく教会が再建された時に付け足されたもので、周囲の地面が高くなり、その結果、洗礼堂のプロポーションが低くなった(洗礼堂の舗装の高さは、実際には教会のそれより1.56メートル低い)のを補う必要性から決定された。」

ちなみに、Zodiaqueはこの洗礼堂について5世紀に遡ると書いています。「590年に行われたテオドリンダ(Teodolinda)とアギルルフォ(Agilulfo)の結婚式の記録(助祭パウロによって語られている)は、古代の地域キリスト教共同体の存在と、間違いなく宗教的な建物の存在を示している。洗礼堂もあった可能性が高く、5世紀に建てられた現在の洗礼堂だと考える考古学者もいる。私たちとしては、この建物を修復した人々の意見に従うことを好み、彼らが提唱した5世紀の年代を受け入れることにする。」

洗礼堂が建てられた当時の教会がどんなだったのか興味がありますが、詳細は不明です。(Jaca Book によると、教会の北側廊最北端の柱間で行われた1980年の小規模な発掘調査で、洗礼堂の床レベルと変わらない位置に、南北に伸びる壁の遺構が確認されています。)

教会に目を移すと、南小後陣には対になったM字形の盲アーチがあり、主後陣には古風な半円筒のアーチがあります。

教会:南東側外観

Jaca Book は、細部を他の教会と比較しつつ、建築年代について考察します。「セガーニ(Segagni)が提唱した三つの建築段階、すなわち1025年頃に東側のブロックから始まった建築は、身廊の最東端の二つの柱間とそれに対応する柱間(第2段階)へと続き、11世紀後半のローマ時代後期の城壁まで縦方向に続いて締めくくられるという仮説は、一連の手がかりに基づいて支持することができる。後陣部分には、身廊本体よりも古風な特徴を持つ部分がいくつかある。主後陣は、非常に突出した付け柱(ほぼ構造的機能を思わせる)によって不規則に分割され、上部には、盲アーチではなく、サン・ピエトロ・ディ・アリアテ(San Pietro di Agliate)の後陣のような古風なタイプの半円筒がある。」

主後陣はアリアテ(Agliate)の方が美しいように感じます。あちらは、付け柱と半円筒とのバランスが絶妙でした。

西側をみます。

教会:西側外観

教会の西にあるアトリウム部分は、かなり崩れています。

教会:アトリウムにて南を向く

Jaca Book によると「教会の西側部分が崩壊したのは、おそらく鐘楼の崩壊が原因であろう。この出来事は、確実な年代を特定することはできない。倒壊の年代についてはいくつかの仮説が提唱されているが、多くの場合、12世紀にロメッロが受けた多くの破壊と関連している。ポー渓谷に壊滅的な打撃を与えた1117年の有名な地震に加え、ロメッロには少なくとも、アレクサンドリア包囲に向かうバルバロッサの軍隊による1174年の略奪と破壊、ミラノ人による1200年と1213年の略奪と破壊を挙げる必要がある。しかし、当時のロメッロ伯爵家が、教会を修復することなく廃墟のまま放置したとは考えにくいので、崩壊が起こったのはもっと後のことで、おそらく15世紀になってからであろう。」

5. 内観

教会の中に入ります。

教会:身廊にて東を向く

美しいです。ここで結婚式をする新郎新婦は、祝福につつまれて幸せいっぱいそうでした。

洗礼堂に行きます。

洗礼堂、西扉口にて東を向く

洗礼盤は、不規則な六角形です。

洗礼堂、洗礼盤

サンタ・マリア・マッジョーレ教会(Chiesa di Santa Maria Maggiore)。

サンタ・マリア・マッジョーレ教会(Chiesa di Santa Maria Maggiore)とサン・ジョヴァンニ・アド・フォンテス洗礼堂(Battistero di San Giovanni ad Fontes)。洗礼堂と教会のレンガの建物群が魅力的です。

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