ミラノ(Milano)<4>

2023年9月7日(木)の最後、二番目に訪れたのは Milano。サン・チェルソ教会(Basilica di San Celso)です。

ここは、西扉口のまぐさ、南壁と、教会内部の柱頭に残る彫刻が素晴らしいです。

San Celso は基本的に閉まっています。私は Santuario di Santa Maria dei Miracoli presso San Celso のウェブサイトから訪問を予約しました。

私は Milano で4か所に行きました。以下のように4回に分けて書いています。
<1> Basilica di San Lorenzo Maggiore(8月29日に訪問)
<2> Cripta di San Sepolcro(8月29日に訪問)
<3> Museo del Duomo di Milano(8月29日に訪問)
<4> Basilica di San Celso(2023年9月7日に再訪し中を見学)

目次

1. Basilica di San Celso へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 内観 .
5. 外観 .

1. Basilica di San Celso へ

サン・チェルソ教会(Basilica di San Celso)は、ミラノのドゥオーモから南に約1kmの位置にあります。

Googleマップの航空写真のスクリーンショットを私が編集しました。

① Basilica di San Celso② Santuario di Santa Maria です。

Googleマップによる航空写真より

私に訪問の許可をくれた神父の言葉:「Santuario di Santa Maria にて15:30から16:30の間に司祭(rettore)をたずねるように」にしたがい、私は15:30に Santuario di Santa Maria の身廊に行きました。

すると、神父がひとり現れました。

2. 概要

ジャカ・ブック(Jaca Book)PATRIMONIO ARTISTICO ITALIANO『LOMBARDIA ROMANICA VOL II』(以下「Jaca Book」)による概要です。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

この教会は、殉教者ナザリウスとケルススが埋葬された古代の墓地の跡地に建っている。建築の歴史に関する資料は非常に少ない。

ケルススは、イタリアではチェルソ(Celso)と呼ばれます。

992年、大司教ランドルフォ2世ダ・カルカーノ(Landolfo II da Carcano)がここにベネディクト会修道院を設立した。

1430年、フィリッポ・マリア・ヴィスコンティ(Filippo Maria Visconti)公爵は、バシリカの隣に祭壇に聖アンブローズの聖母像が描かれた小さな建物の建設を推進した。

この「小さな建物」がのちに Santuario di Santa Maria dei Miracoli になります。

15世紀末には、いくつかの奇跡(miracoli)が起こったとされ、この聖母像の名声が高まり、増築が行われた(1493年)。

16世紀には、聖堂はさらに増築され、2つのバシリカのファサードが一直線に並ぶようになり(サン・チェルソのバシリカは1651年にバロック様式に改築された)、クアドリ・ポルティコのアトリウムが設けられた。

この構造は19世紀初頭まで続いたが、再開発を理由に、ロマネスク様式の教会は、身廊がほぼ内陣まで取り壊された。

1854年、新しいファサードが「様式通りに」建設され、12世紀後半に作られたまぐさ(伝説が描かれたもの)を持つオリジナルの扉口が復元された。

教会前庭の南側の壁には、ロマネスク時代の彫刻の破片(特に柱頭)や、様々な時代の考古学的発見物が埋められた。

今では Santuario di Santa Maria の方がはるかに大きい建物ですが、Basilica di San Celso は由緒正しい聖なる場所として大切にされています。

3. 平面図

Jaca Book による平面図です。東が上です。

Jaca Book より

現存する部分は黒、19世紀に取り壊された部分は灰色で示されていると思います。

4. 内観

神父と私は、Santuario di Santa Maria の南側廊から Basilica di San Celso に行きました。

両方の教会とも撮影禁止とのことでした。

Jaca Book より

神父によると、Basilica di San Celso は、鐘楼を含め、11世紀にロマネスク様式で再建されました。当初、身廊の柱間は四つでしたが、19世紀に二つ取り壊されました。

このため、ずいぶんと短い身廊になっています。

ロマネスク様式のバシリカは縦長で、三身廊。半円形の後陣が一つあります。

サンタンブロージョ教会(Basilica di Sant’Ambrogio)のものによく似た柱頭彫刻がならんでいて、私はしばらく夢中で眺めました。

5. 外観

東側をみます。

11世紀にさかのぼる鐘楼。ミラノ最古級です。

東側外観

西側をみます。

ファサードの前(西)には庭園があり、金属の柵が、庭園と道路を分けています。

西側外観

柵の間からファサードを見ました。

西側外観

ファサードには三身廊にあわせて扉口が三つありますが、中央に注目します。

柵の間から撮影した、西扉口のまぐさ(12世紀後半)です。

三頭身の人物たちが躍動しています。また、円柱と柱頭が並んでいますが、ひとつひとつ、装飾が異なるんです。この細やかさと美しさときたら、もう。。。私、大好きです。

西扉口のまぐさ

聖ケルスス(伊:San Celso)の生涯が描かれています。

樹木に隠れている部分は、こうなっています。

Jaca Book より

左端に描かれている人物は、足先のほかは、すっかり隠れています。

これは、神父によると、1865年にファサードを再建したとき、寸法を間違えて短くしてしまったのだそう。

13世紀にヤコブス・デ・ウォラギネが書いた『黄金伝説』(前田敬作・西井武訳)によると、西暦57年に即位した皇帝ネロの治下、ナザリウスとケルススは、ミラノの門外で首を刎ねられて殉教しました。

短くされた部分は、ひざまずいた聖人の首もとに剣を向ける人物のようです。刑吏が描かれていたのかもしれません。

『黄金伝説』の記述をまとめると:

ユダヤ人の貴族を父として生まれたナザリウスが受洗後にローマの町を出たあと、ゲメルス(現在のジュネーヴ)というガリアの町にいたとき、ひとりの母親がケルススという名の元気な少年を連れてきて、どうか息子に洗礼をさずけて、そばにおいてやってくださいと申し出た。

とあります。ケルスス、少年殉教者だったんですねえ。

また、こうも書いてあります:

ナザリウスは、ケルスス少年といっしょに船にのせられ、沖合いに漕ぎだしたところで、海に突き落とされた。と、突然、船のまわりにはげしい嵐が起こった。しかし、聖人たちのまわりは、鏡のように静かであった。水夫たちは、もう助かるまいと恐怖にとりつかれ、聖人たちにくわえた悪行を悔いた。すると、ナザリウスは、ケルスス少年とたのしげに水のうえを歩いて渡り、船にあがると、祈りによって荒れ狂う波をしずめた。

右に描かれている波打つ場面は、たぶん、たのしげに水のうえを歩いて渡っているところ。

西中央扉口のまぐさ

神父と『黄金伝説』によると、4世紀に聖アンブロシウスが、ナザリウスとケルススをローマ時代の墓からみつけたのだそう。

南側の壁をみます。

ロマネスク時代の彫刻の断片(特に柱頭)や、様々な時代の考古学的発見物が埋められています。

柵の間から南東を向く

柱頭は、サンタンブロージョ教会(Basilica di Sant’Ambrogio)のものに似ています。

サン・チェルソ教会(Basilica di San Celso)。西扉口のまぐさ、南壁と、教会内部の柱頭に残る彫刻が素晴らしいです。

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