サングイナーロ(Sanguinaro)

2023年9月3日(日)、二番目に訪れたのは Sanguinaro。Chiesa dei Santi Simone e Giuda です。

ここは、後陣の外観と地下聖堂が素晴らしいです。

教会の訪問には事前予約が必要です。私は WhatsApp で予約しました。2023年の予約可能時間は、6月から9月の日曜と祝日の9:00〜12:00と15:00〜18:00(ただし10:15〜10:45頃は聖ミサがあるため見学不可)でした。

目次

1. Sanguinaro へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観 .
5. 内観 .

1. Sanguinaro へ

サングイナーロ(Sanguinaro)は、パルマから西に約15km、エミリア通り沿いの緑豊かな村です。

北東側外観

私は11:00頃に教会に着きました。聖ミサが終わったばかりの教会に入ると、訪問の依頼を快く受け入れてくれた Gianluca さんがいました。

彼は、私に教会を案内し、そして、リーフレットをくれました。

2. 概要

リーフレットによる概要です。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

教会は、1080年の文書記録に初めて言及されたが、11世紀前半に司祭 Maginfredo di Sanguinaro によって設立されたと言われている。彼は、1095年の遺言にあるように、資産を教会と彼自身が設立した貧しい巡礼者のためのホスピスに残した。

12世紀末、レッジョ・エミリアのベネディクト会サン・プロスペロ修道院(Abbazia benedettina di San Prospero)の所有となった。そして1230年に、教会と付属のホスピスは、マルタ騎士団として知られるエルサレムの聖ヨハネ騎士修道会の所有となった。

15世紀末、巡礼の時代が終わりを告げると、病院は閉鎖され、広大な敷地を持つ教会はコメンダム(commenda)に委ねられた。

コメンダム(commenda)は、高位の聖職者で、その聖職者は施設の管理権原を持ち収入を受け取りますが、共同体には住みません。

敷地は収入を受け取る騎士団長によって管理され、教会は騎士団が雇った礼拝堂つき主任司祭(Cappellano)によって管理された。ナポレオンによってこの宗教騎士団が弾圧されるまで、その状態が続いた。その後、教会は周辺の土地とともに個人の手に渡ったが、1916年に教区教会に戻り、現在はノチェート(Noceto)教区の一部となっている。

聖ヨハネ騎士団については、こんな風に紹介されています。

ホスピタル騎士団は、エルサレムの聖ヨハネ病院騎士団として生まれ、その後ロードス騎士団、後にマルタ騎士団として知られる。聖地のキリスト教領土が失われた後、騎士団はロードス島に避難し、そこで主権を拡大し、後にシチリア王の臣下の地位を得てマルタ島に避難した。ナポレオンによってマルタ島から追放された後、中世の騎士団は終焉を迎えたと言える。マルタ共和国軍事騎士団(SMOM)は、この伝統の主な後継者である。今日、SMOMは110カ国以上に存在し、軍事的なコミットメントを放棄し、慈善活動や福祉活動を行っている。

この後も、リーフレットを引用するときは太字で書きます。

3. 平面図

リーフレットによる地下聖堂の平面図です。東が下です。

リーフレットより

Gianluca さんによると、南側廊と南小後陣の階段は、かつて、この場所で市場を開くために改築したものです。地下なので寒暖の差が緩やかですし、雨や風の影響がなくて、便利だったのかもしれません。

地上には主後陣ひとつしか残っていませんが、地下聖堂には三後陣の痕跡が残っています。

4. 外観

主後陣が美しい。

Gianluca さんによると、主後陣は11世紀後半のものです。

東側外観

簡素な石積みが、とても良いです。

5. 内観

教会の中に入りました。

後陣には後期ゴシック様式の壁画があります。

身廊にて東を向く

南側廊に扉があり、細い階段をおりると、地下聖堂があります。

建物の中で最も古い部分です。

地下聖堂(南側廊にて北を向く)

正方形の柱間は十字ヴォールトで覆われ、ヴォールトは素朴な石造りの柱で支えられています。

地下聖堂(北側廊にて東を向く)

三つの身廊を持つ、立派な構造。

地下聖堂(身廊にて東を向く)

西壁は埋められていますが、アーチは連続している様子。かつての地下聖堂は、西側にもっと広かったはずです。荘厳な空間だったことでしょう。

Chiesa dei Santi Simone e Giuda。後陣の外観と地下聖堂が素晴らしいです。

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