カノッサ(Canossa)

2023年8月31日(木)の最後、二番目に訪れたのは Canossa。カノッサ城(Castello di Canossa)です。

ここは、洗礼盤が素晴らしいです。柱頭彫刻も良いです。カノッサ城やマティルデ(Matilde)についての展示も充実しています。

博物館として運営されています。夏期は火曜から日曜の10:00〜18:00、冬期は火曜から日曜の10:00〜16:00に開いています。有料(€4)です。

目次

1. Castello di Canossa へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観 .
5. 内観 .
 

1. Castello di Canossa へ

城は、レッジョ・エミリアの南西約20km、高さ60メートルを超える大きな白い砂岩の崖の上にあります。

南側遠景

夫と私は、車をカフェ(Andare A Canossa Di Bernabei Mario)の近くの駐車場に停め、歩いて城の下のチケット売り場に行きました。13:15頃のことです。

チケット売り場は閉まっていましたが、30分くらい待つと鍵を持った婦人が来ました。

チケットを売ってくれた婦人と一緒に歩いて城に行きました。

チケット売り場
城からの眺望

素晴らしい眺望です。城からは、眼下に広がる谷と遠くの平野を見渡すことができました。

2. 概要

博物館に案内掲示がたくさんありました。私が和訳して太字でまとめます。

この城は、おそらく10世紀半ばにアダルベルト・アット(Adalberto Atto)によって築かれた。彼が築いた城がどのような建造物であったのか、まだ正確には分かっていないが、おそらくは、ささやかな要塞住居と、後に繁栄する聖アポッロニオのベネディクト会修道院(monastero benedettino di Sant’Apollonio)を基盤としていたのであろう。

Adalberto Atto がカノッサ家の礎を築きました:

10世紀後半、Adalberto は、さまざまな領地の売買を通じて、戦略的基盤を築いた。彼は皇帝オットー1世の庇護を確保して忠実な代理人となり、その代わりに政治的名声と封建的栄誉を得た。彼は952年に伯爵の称号を得たのち、962年にはレッジョとモデナの伯爵となった。

Adalberto の子で後継者のテダルド(Tedaldo)は、955年から1013年の間に生きたと思われる。Tedaldoは一族の支配地をフェッラーラとブレシアにまで拡大した。また、1007年にはサン・ベネデット・ポー(San Benedetto Po)修道院の建設に着手し、修道院に資金を提供するとともに、自身と相続人に修道院長の地位を与えた。

Tedaldo の子で後継者のボニファチオ(Bonifacio)は、985年頃に生まれた。ドイツの皇帝たちと巧みに同盟を結び、政略結婚によって父方の遺産を拡大し、教会から資源を引き出したり、準法規的な取引を行ったりした。1010年から1015年にかけて、彼はベルガモ伯の娘であるリキルデ(Richilde)と結婚した。彼女の持参金にはブレシア、マントヴァ、フェッラーラ、レッジョ・エミリア、クレモナ、ヴェローナの領土にある多くの財産が含まれていた。1024年、カノッサ家はイタリア支配の中枢であるトスカーナ侯爵に任命され、1032年には公爵の称号も得た。Bonifacio は、2番目の妻であるベアトリーチェ(Beatrice)からの持参金で資産を増やした。Beatrice は、ヨーロッパで最も重要な貴族のひとつであるロートリンゲン公の娘であり、皇帝コンラート2世の姪でもあった。

案内掲示より(カノッサ家の所領)

Bonifacio と Beatrice の娘が、のちに女伯となるマティルデ(Matilde)です。

Matilde は、1045年から1046年の間に、おそらくマントヴァで生まれた。1052年に父が暗殺され、その2年後に母が庇護を求めて再婚。母 Beatrice の新しい夫はロートリンゲンの髭公ゴットフリート(Goffredo il Barbuto)であった。幼い Matilde とその母は皇帝ハインリヒ3世に捕らえられ、1055年にドイツに連行される。翌年に解放された二人はロートリンゲンに短期間滞在した後イタリアに戻り、Matilde は髭公の息子であるせむし公ゴットフリート(Goffredo il Gobbo)と婚約する。1069年、彼女はせむし公と結婚するためにアルプス北部に向かうが、夫の意向に反し、一人でイタリアに戻った。1076年、せむし公が死去。すでに兄も母も亡くしていた Matilde は一人で所領を治めることとなる。その頃、教皇グレゴリウス7世と若き皇帝ハインリヒ4世を頂点とする教会と帝国の関係は、深刻な危機を迎えていた。Matilde は教皇派として両者を仲介し、1077年に「カノッサ事件」となる。

【カノッサ事件】皇帝ハインリヒ4世は、1077年1月25日から3日間に及んで雪が降る中、カノッサ城門にて裸足のまま断食と祈りを続け、教皇に破門の解除と赦しを請いました。結果、教皇はハインリヒ4世の破門を解きました。

1081年、反撃に出たハインリヒ4世はルッカに赴き、Matilde から領地を剥奪。1085年、教皇グレゴリウス7世が死去。1092年、新たな敵対的軍事行動を受けた数ヶ月後にカノッサ近郊で決戦が行われ、Matilde の兵は皇帝軍を退却させることに成功した。この勝利を記念して「戦いの聖母」に捧げられた寺院がこの地に建てられた。その後の数年間で、失われた領土を取り戻した。Matilde は、1070年にルッカ大聖堂、1099年にモデナ大聖堂、さらに教会、貧者や巡礼者のためのホスピスなどを建てた。1115年7月24日に死去。

後継者がいなかったため、彼女の遺領は教皇領や皇帝領となりました。その後に各都市は自治を目指し、北イタリアに多くの都市国家が生まれるのです。

この後も、案内掲示を引用するときは太字で書きます。

3. 平面図

案内掲示による平面図(カノッサ城の地図)です。

案内掲示より

ローマの Archivio Centrale dello Stato に保管されている、G. Chierici によって1880年に描かれた地図

4. 外観

平面図の右側に半円で描かれているところが、壁が多く残っている場所。

カノッサ城

攻防が繰り広げられた城です。

5. 内観

博物館は、Matilde 時代の宮殿があった場所に建設されたが、当時は基礎部分しか残っていなかった。1893年に開館し、3つの部屋で構成され、1877年以降の発掘調査で発見された品々や城周辺の出土品が展示された。最初の博物館の展示品には、103枚のコインやその他の貴重なコレクションも含まれていたが、1921年に盗難に遭い、発見されることはなかった。

博物館の展示物を見ます。

出土した断片

柱頭は、1877年以降の考古学的発掘調査で出土したもので、11世紀後半から12世紀初頭のものである。元の発掘場所が特定できるのは、聖アポッロニオ教会の跡地で発見された渦巻きの標本2点と怪物のような像が描かれた角柱の柱頭だけである。残りの柱頭については、元の場所を特定することはできない。それらはおそらく、回廊や宮殿など、城のさまざまな場所から出土したものであろう。

発掘された断片と復元予想図

2面に装飾が施されている角柱の柱頭は、柱頭は聖アポッロニオ(Sant’Apollonio)教会の瓦礫の下から発見され、11世紀末のものと推定されている。

角柱の柱頭

片面には下半身が蛇の形をした2匹の怪物、もう片面には2匹のライオンが描かれていますが、はっきりと見えるのは1匹だけです。

角柱の柱頭(別角度)

私がいちばん好きなのは、こちらの洗礼盤です。

聖アポッロニオ(Sant’Apollonio)教会の洗礼盤(10世紀)

福音書記者の象徴が描かれています。

有翼の牛(聖ルカ)

洗礼盤

有翼の人(聖マタイ)と、有翼のライオン(聖マルコ)。

洗礼盤(別角度)

?鷲(聖ヨハネ)がみあたりません。どうやら、鷲(聖ヨハネ)は描かれていないようです。

展開図が掲示してありました。

景士してあった展開図

さらに、こんな風に説明されていました。

浮き彫りの装飾は、福音書記者ルカ、マタイ、マルコと、悪に対する善の闘いの寓意が描かれている。

鷲(聖ヨハネ)が描かれていないのは不思議ですが、、、力強くて、素晴らしい浮き彫りです。

洗礼盤(別角度)

カノッサ城(Castello di Canossa)。洗礼盤が素晴らしいです。柱頭彫刻も良いです。カノッサ城やマティルデ(Matilde)についての展示も充実しています。

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