ガッリアーノ(Galliano)<2>

2023年7月28日(金)の最後、八番目に訪れたのは Basilica di San Vincenzo in Galliano です。

ここは、フレスコ画と地下聖堂が素晴らしいです。

金曜から日曜の15:00〜18:00に開きます。土曜は9:00〜12:00も開きます(2023年7月現在の情報です)。

Galliano では、二つの建物に行きました。以下のように2回に分けて書いています。
<1> Battistero San Giovanni Battista
<2> Basilica di San Vincenzo in Galliano

目次

1. Basilica di San Vincenzo in Galliano へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 東側外観.
5. 内観.  .
 5-1. 北側廊(碑文) .
 5-2. 地下聖堂(最初の教会の支柱) .
 
5-3. 内陣(最初の教会の床).
 5-4. 後陣のフレスコ画.
 5-5. 南壁のフレスコ画.

1. Basilica di San Vincenzo in Galliano へ

私は Battistero San Giovanni Battista から、北隣にある Basilica di San Vincenzo in Galliano に向かいました。15:30頃のことです。

西側外観

左の建物が<2> Basilica di San Vincenzo in Galliano です。

ファサードの西側の芝生の中に敷石で目印があります。かつてのアトリウムの位置を示しているものだと思います。

2. 概要

ジャカ・ブック(Jaca Book)PATRIMONIO ARTISTICO ITALIANO『LOMBARDIA ROMANICA VOL II』による概要です。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

最初の教会は、おそらく5世紀半ば頃に建設された。最初の教会はローマ時代の集落に関連して生まれたと考えられる。

碑文にある通り、1007年に再建されて献堂されました。

再建された建物は、最初の教会よりも、相当に大きく造られました。

バシリカの内部は、1981年に大規模な調査が行われた。古代の床、竈、瓦礫で埋め尽くされた穴、そして二つの鐘の鋳造穴が明るみに出た。その結果、南側外周の基礎の一部が再建時に建物の土台として再利用され、北側外周は完全に解体されたことが判明した。ファサードのラインは変更されなかった。地下聖堂が挿入されたため、東側の状況は不明であるが、他の同時代の事例と同様に、建物は半円形の後陣で終わっていた可能性が高い。したがって、最初の教会の大きさは約15 x 9.5メートルとなる。

現在の建物の大きさは、失われた南側廊を含めると約22 x 18.5メートル。さらに、ファサードの西にはアトリウムがありました。アトリウムを含めると約40 x 18.5メートルになります。(私がGoogleマップの航空写真に定規をあてて測りました。間違っていたらごめんなさい。)

この後も、ジャカ・ブック(Jaca Book)を引用するときは太字で書きます。

3. 平面図

ジャカ・ブック(Jaca Book)PATRIMONIO ARTISTICO ITALIANO『LOMBARDIA ROMANICA VOL II』による平面図です。東が上です。

ジャカ・ブック(Jaca Book)による平面図
ジャカ・ブック(Jaca Book)による平面図、地下聖堂

かつてあった南側廊とアトリウムは、現在はありません。地面に目印があります。

では、見学しましょう。

4. 東側外観

東側には、主後陣と北小後陣があります。

北東側外観

南小後陣は、倒壊し、再建されませんでした。

南東側外観

20年間(1910-13年、1932-34年)にわたり修復を指揮した Ambrogio Annoni が倒壊した南身廊を再建することを拒否したこと結果、形成されたものである(そのため、支柱と同じ高さの大きな窓が考案されたが、内部の微気候に多くの問題を引き起こした)。これは、モニュメントの純粋な統合を目的とし、あらゆる追加や解釈を排除した、現代の修復概念の先例のようなものを認めたかったのである。

後陣の南側の芝生の中に敷石で目印があります。倒壊する前の、南小後陣と南側廊の位置を示しているものだと思います。

5. 内観

教会の中に入ります。

身廊にて東を向く

19世紀初頭に農村の住居(地下聖堂のみが礼拝のために保存された)に姿を変え、内部は間仕切りとロフトによって変容したと言います。いま、こうして見学ができるのは、ありがたい。

5-1. 北側廊(碑文)

北側廊に碑文があります。

B(ONAE) M (EMORIAE)
HIC REQVIISCIT IN PA
CE SANC(TAE) M(EMORIAE) ADEO
DATVS PRE(S)B(YTERV)S QVI
VIXIT IN SECVLO
ANN(IS) PLVS M(INVS) LXXXV D(E)P(OSITVS)
SV (B) D(IE) VIIII KAL (ENDAS) IVL(IAS) [albero]
PROBO IVN (IORE) V (IRO) C(LARISSIMO) CON
SVL(E) PER IND (ICTIONEM) TERTIA(M)

碑文の隣に説明があります。説明によると「教会の改修中に Ariberto da Intimiano によって祭壇の前で発見された、525年の Adeodato の埋葬を示す墓碑」です。

525年のAdeodato の埋葬を示す墓碑

もうひとつ碑文があります。

VI NO(NAS) IVL(LAS) TRANSLACIO
S(AN)C(T)I AD (E)ODATI ET DEDIC(ATIO) ISTIV(S)
EC(C)L(ESIA)E ET IBI REQ(VI)EXCVNT
IN PACE B(ONAE) M(EMORIAE) ECCLESIVS ET
MANIFREDVS P(RES)B(ITE)RI SEV
SAVINVS DIACO(NV)S Q(VI) FVER(VNT)
INVENTI IVSTA SEPVL
HCRV(M) IPSIV(S) S(AN)C(T)I AD(E)ODA(TI)
ANNI D(OMI)NI DDVII INDI(CTIONE) V
TEMP(ORE) DOM(I)NI ARIBERTI DE
ANTIMIANO ET SVBDIACON(I)
S(AN)C(TA)E MEDIOLANE(N)SIS EC(C)L(ESIA)E
ET CVSTODIS ISTIVS EC(C)L (ESIA)E SEV TEMP(ORE) HE(N)RICI RE
GIS

1007年の献堂の碑文

碑文の隣に、碑文(ラテン語)のイタリア語訳がありました。イタリア語訳を和訳します。

7月2日、S. Adeodato の聖遺物の遷移とこの教会の献堂が行われ、聖なるミラノ教区の副助祭であり、この教会の管理者である Ariberto da Intimiano 公の時代、すなわち Enrico 王の時代、我々の主の年1007年、S. Adeodato の墓の近くで発見された、善良な記憶を持つ Ecclesio 司祭と Manifredo 司祭、Savino 助祭がここに安らかに眠る。

Ariberto は発見した Adeodato の6世紀の遺骨を聖遺物として地下聖堂に遷移しました。再建した教会の権威を高めようとしたのだと思います。

5-2. 地下聖堂(最初の教会の支柱)

内陣の下に、地下聖堂があります。

ジャカ・ブック(Jaca Book)は、最初の教会の支柱が、再利用されたと考えています。

地下聖堂にて南東を向く

批評家たちは長い間、類型論的・形式的理由から、柱頭(白大理石製、コリント式、各面に小さな十字架がある)を8~9世紀のものと考えてきた。しかし、綿密な観察によって、支え(柱頭のほか、小柱と台座)全体の材質と年代が均質で一貫しており、おそらく5世紀まで遡ることが確認された。

5-3. 内陣(最初の教会の床)

地下聖堂の上に内陣があります。

最初の教会の床が、再利用されています。

内陣
内陣

(おそらく5世紀半ば頃に建設された最初の教会の)聖職者のためのスペースは少し高くなっており、2段の階段があった。床は、平板の黒と白の幾何学的な組み合わせ(古代後期、この地域で一般的な方法)で構成されていたが、後に切り離され、Ariberto が再建した建物の内陣で再利用された。

5-4. 後陣のフレスコ画

後陣に、立派なフレスコ画があります。

後陣のフレスコ画

フレスコ画については、教会の中に詳細な説明パネルがありました。

このフレスコ画は、Ariberto によって教会が再聖別された1007年に描かれたもので、この地で活躍した最も偉大な巨匠によるものである。図像学的に極めて重要な珍しい主題であり、5~6世紀のコプト美術やシリア美術に散発的な古代例が見られる。

洗礼堂も、地下聖堂も、内陣の床も、5〜6世紀に敬意を表していました。 最初の教会が5世紀半ばに建てられたこの教会って権威があるんだぞ、と言いたかったのかもしれません。

図像学的に極めて重要な珍しい主題というのは、これです:
キリストは、虹色に輝くマンドルラの中で、右手を挙げ、左手に開かれた書物を持っている。救世主の足元には、預言者エゼキエルとエレミヤがひれ伏している。彼らの背後には、大天使ミカエルとガブリエルが「PETICIO」と「POSTULATIO」と書かれた標識を持っている(あたかも、牧者であるキリストが裁定者となる審判に関する「弁明(DIFESA)」と「告発(ACCUSA)」を意味するかのようだ)。最後に、正体不明の聖人たちが2組描かれている。左翼には火の戦車に乗ったエリヤの昇天が描かれ、右翼にはおそらく浜辺で魚に吐かれたヨナが描かれている。これはマイエスタス・ドミニであり、黙示録のみに由来するものではなく、エゼキエルの幻視に重ね合わされたものである。

左翼
右翼

後陣の三つの窓のあたりには、この教会が捧げられている聖人、San Vincenzo の生涯が描かれています。

San Vincenzo の生涯1: 皇帝の前で尋問され拷問される聖人、2: 溶けた鉛で拷問される聖人、3: 遺体が発見され埋葬される聖人。

San Vincenzo の生涯1
San Vincenzo の生涯2
San Vincenzo の生涯3

そして「San Vincenzo の生涯」の右隣では、再建時に6世紀の遺骨を聖遺物として地下聖堂に遷移された S. Adeodato が、再建を進めた Ariberto da Intimiano をイエスに紹介しています。

S. Adeodato と Ariberto da Intimiano

Ariberto da Intimiano にズームアップ。

Ariberto d’Intimiano

11世紀の教会再建の立役者です。

5-5. 南壁のフレスコ画

南壁にも、フレスコ画があります。

南壁

教会の中にあった説明パネルによると、

身廊に描かれたオットー朝美術の影響を強く受けたビザンチン様式のフレスコ画は、後陣の画家とは別の、匿名の画家の作品である。同じく11世紀に描かれたものだと考えられている。

描かれているのは、「聖クリストポルスの生涯」と「サムソンの生涯」です。

聖クリストポルスは、ヤコブス・デ・ウォラギネが書いた『黄金伝説』によると、庶民の出で、いかつい面貌の持ち主だったらしいのです。

でも、、、

聖人の身体は、ビザンチン宮廷の高官に典型的な、宝石をちりばめたチュニックとクラミスを身にまとっており、12世紀以降に図像学上の習慣となる、子供姿のイエスを肩に担ぐことはしていない。

聖クリストポルス

ビザンチン宮廷の高官のような、宝石をちりばめた衣服を身にまとっています。

ただ、いかつい面貌は、その通りかも。

Basilica di San Vincenzo in Galliano。フレスコ画と地下聖堂が素晴らしいです。

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