2022年12月19日(月)の最後、二番目の訪問地は Ronciglione。Chiesa paleocristiana di Sant’Eusebio です。
ここは、柱頭彫刻と壁画が素晴らしいです。
基本的に閉まっています。教会の修復を行った建築家、Pietro Lateano先生(Prof. Lateano)に事前予約すると開けてもらえます。連絡先はGoogleマップに載っています(2022年現在)。
私は、最初に12月7日にここに来ましたが、行き違いがあって教会の中に入ることができませんでした。12月19日に再訪して教会の中を見学しましたから、12月19日の記録として書きます。なお、外観の写真は12月7日に撮影したものです。
目次
Ronciglione へ .
概要 ..
外観 .
内観全体、柱頭彫刻 .
石棺 .
落書き .
壁画:「ご訪問」 .
壁画:「最後の晩餐」 .
壁画:「エッサイの木」 .
脚注(1) エミール・マール(Émile Mâle) .
〜2022年冬❄️の旅行の終わりに〜 .
アルファベットは、脚注のフランス語を除いて、基本的に全てイタリア語です。
Ronciglione へ
私はアレッツォ(Arezzo)から、南に約200km、2時間半ほど運転して、カッシア・チミーナ通り(Via Cassia Cimina)に来ました。
2軒のカフェ/バーの辺りで東に曲がり、サント・エウゼビオ通り(Via Sant Eusebio)を1.5kmほど進みます。下の画像で、青い線です。

最後は、デコボコ道で、インディー・ジョーンズ気分を味わうことができるかもしれません。

最初に行った12月7日は雨上がりでした。道に大きな水たまりがあり、とまどったことを覚えています。(でも、安心してください。運転が下手な私でも、2回も往復することができました。)
概要
Prof. Lateanoから聞き取った説明です。(聞き間違いがあったら、ごめんなさい。)私が一部を抜粋して太字で和訳します。
3世紀頃までは、太陽に捧げる神殿であった。建物は、冬至の夜明けの太陽が、真っ直ぐに差し込む構造である。
ローマの高級官僚(funzionario)だったフラヴィウス・エウセビウス(Fravio Eusebio)が、この地に農場と邸宅を持っており、ここを彼の親族の霊廟とした。
4世紀に、ここからわずか6kmの町、ストリ(Stri)の司教が信者の崇敬を得た。司教の名はエウセビウス(Eusebio)。この地に眠るフラヴィウス・エウセビウス(Fravio Eusebio)とは別人であり、血縁関係があったかどうかも不明だが、ローマを目指して行き交う巡礼者や聖職者たちは、次第に、同一視するようになった。
この後も、Prof. Lateanoから聞き取った説明を引用するときは太字で書きます。
さっそく、見学です。
外観
車は、教会の周りじゅうに、あちこち停められます。
この教会は、東にファサードがあります。
通常は東を向いて祈りを捧げますが、この教会は祭壇が西にあります。逆向きです。
かつては鐘楼があったが、1940年に倒壊した。
教会の中に入ります。
内観全体、柱頭彫刻
わお。

無骨な太い柱と、簡素な柱頭が、素晴らしい。

8世紀頃には既に、巡礼者や聖職者がここを訪れており、彼らはこの身廊をひざまずいて進み、祈りを捧げた。
私は「!」という表情をしてしまいました。
Prof. Lateanoが「何ですか?おっしゃってください。」というので、遠慮なく。
私は「もし膝で歩いたら、膝が痛いです。」と言いました。
Prof. Lateanoは「もちろん、彼らは知ってたよ」っていう表情で、話を続けました。
身廊は、大きな凝灰岩のブロックで形成されている。柱頭とその基部は800年頃のものであろう。

身廊の両側には三つのアーチがあります。幅広の円柱の上に、四角形の柱頭があって、リボン、植物などが彫刻されています。
一番印象的なのは、勝利アーチの柱頭彫刻です。
向かって右手には、孔雀とヨーロッパヤマウズラが彫られている。
向かって左手には、蛇が彫られている。逆さまで、炎を吐いている。
これは内部に巡礼路があった証拠である。教会の中に入った巡礼者は、右手に神の手が書かれていれば、不滅の救いと忠節を得ることができるということを覚えておくのだ。左手では、悪魔の手に用心せよ。悪魔が待ち構えている。つまり、ひっくり返った蛇は倒されたが、悪魔であることに変わりはない。
石棺
碑文のある祭壇の奥に、石棺があります。
4世紀のもので、おそらく、一番奥の壁に近いものがフラヴィウス・エウセビウス(Fravio Eusebio)の石棺であろう。
落書き
教会の中には、合計53の落書きが残されている。ラテン語と方言とが混ざり合った言葉が書かれており(onciale romana)、8世紀頃のものであろう。

自分の名、祈り、エウセビウス(Eusebio)司教への加護の願いなどが書かれている。
壁画:「ご訪問」
祭壇の周りには、複数の壁画が残っています。
祭壇脇のシノピアには、聖母マリアが従姉妹のエリザベトと会うご訪問の場面が描かれている。8世紀頃のものと考えられる。

シノピア?と呟く私に、Prof. Lateanoは根気強く教えてくれました。S, i, n, o, p, i, a…
シノピア(sinopia)の名はシノペという赤土の産地に由来し、元々は赤褐色の顔料のことを意味していました。その後、シノピアで描かれた絵画やフレスコ画の下絵を幅広くさすようになりました。
壁画:「最後の晩餐」
「最後の晩餐」があり、その下には、おそらく、弟子たちの足を洗うイエスが描かれている。大部分をフレスコで描き、一部をセッコで仕上げている。12世紀頃のものであろう。

興味深いのは、半円形のテーブルの手前に裏切り者のユダが小さく描かれ、イエスと他の使徒たちがテーブルの向こう側に一斉に並んだ姿で描かれていることです。
それから、テーブルの上には、魚だけが大きく描かれています。ワインやパンは見当たりません。
壁画:「エッサイの木」
主扉口の近くにあります。

エッサイの木は、ダビデ王の父であるベツレヘムのエッサイから枝分かれした木が、イエス・キリストの祖先を表す系図です。

おそらく1090年 – 1120年に描かれたものである。同主題を扱った作品では、サン=ドニの作品が1144年と言われており、西欧における最古の作品である可能性がある。
エミール・マール(Émile Mâle)(1) は、こう書きました。「つまり1144年より以前の『エッサイの木』は一点も残っていないということであり、」
1144年より以前の作品が、残っているかも。

預言者たちが救世主の到来を告げている。この図像は私たちの文化から生まれたものではなく、東方からもたらされたものである。
とても興味深いです。
Chiesa paleocristiana di Sant’Eusebio。柱頭彫刻と壁画が素晴らしいです。
脚注(1) エミール・マール(Émile Mâle). ↩️
エミール・マールは、1906年から1912年までソルボンヌ大学で教鞭を執った、フランスの美術史家です。
私が引用したのは、こちらの本(邦訳)です:
Émile Mâle; L’Art religieux du XII° siècle en France (1922)
(邦訳)『ロマネスクの図像学(上)』田中仁彦・池田健二・磯見辰典・成瀬駒男・細田直孝訳、1996年)Page 256
2022年冬❄️の旅行の終わりに
Ronciglione を最後に、アブルッツォ州とラツィオ州、エミリア・ロマーニャ州、ロンバルディア州を巡る旅は終了しました。
Ronciglione を見学した後にローマに移動して、翌朝に帰国便に搭乗しました。
11月29日から21日間で61か所を巡りました。どれも、鮮やかに心に残っています。
読んでくださり、ありがとうございました。
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