2022年12月5日(月)、最初の目的地はBolsena。Basilica di Santa Cristinaです。
ここは、北扉口と聖体の奇跡の礼拝堂(Cappella del corpo di Cristo)が素晴らしく、聖女クリスティーナの洞窟とカタコンベに驚きます。
基本的に毎日開いています。Basilica内にあるカタコンベの営業時間は以下の通りです(2022年現在)。
11月から3月10:00-12:00と15:30-17:00
4月から10月10:00-12:00と16:00-18:00
カタコンベの入場料は€5です。
目次
Bolsena へ .
概要 .
平面図 .
Basilica:ファサード .
Basilica:内観全体、北扉口 .
聖体の奇跡の礼拝堂(Cappella del corpo di Cristo) .
聖女クリスティーナの洞窟とカタコンベ .
アルファベットは、基本的に全てイタリア語です。
Bolsena へ
私はモンテフィアスコーネ(Montefiascone)から北に約15km、19分ほど運転して、ボルセナ(Bolsena)湖のほとりの町に着きました。10時頃のことです。
Basilicaが見えてきました。
概要
公式サイトに案内がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
Basilicaは、旧ヴォルシニ(Volsinii)の南側境界から350メートル離れた市街地の外側に建設され、初期キリスト教のネクロポリスに近く、この町の殉教者の崇敬を集める墓の上にある。Bolsenaの街で聖女クリスティーナが信仰されたという最初の記述は8世紀まで待たなければならないが、考古学的、記念碑的証拠はもっと前の時代であることを示唆している。
Volsiniiは、エトルリアの古代都市です。
1115年、教会は、ベルナルド(Bernardo)伯爵によってオルヴィエートの司教に寄贈され、以来、Bolsenaの宗教と市民生活の中心となり、町の都市開発に大きな影響を与えた。約1700年にわたる歴史の中で、この建物はかなりの改築が行われ、現在ではその原始的な構造を理解することができるのは一部だけである。
初期キリスト教のネクロポリスが使われなくなると、中世初期には他の野外墓地が開発された。巡礼者のためのホスピス、修道士たちの共同生活のための隠遁所、小川で刃を動かす多くのミル、防衛用の塔や壁がその周辺に建設された。
現在は、三つの明確な核で構成されている:
1. Basilica。中世の時代に建てられたラテン十字の3階建て。
2. 奇跡の新礼拝堂。1693年以降に建てられた。
3. 聖女クリスティーナの洞窟とカタコンべ(4〜5世紀)。
この後も、案内板を引用するときは太字で書きます。
平面図
教会の外にあった案内板に平面図(むしろ地図かしら?)がありました。東が上です。
a と b が聖女クリスティーナの洞窟とカタコンべ(4〜5世紀)、
d が中世の時代に建てられたBasilicaです。
Basilica:ファサード
さっそく見学です。
向かって左に森がありますが、その地中に、驚愕の広大なカタコンベがあります。
ファサードの左側には、13世紀から14世紀にかけて建てられたと思われる鐘楼がそびえ立つ。
Basilica:内観全体、北扉口
内部は三身廊で、ラテン十字型の平面とトラス天井を持つ。
伝承によると、この建物の建設、あるいは再建は、カノッサのマチルデ(Matilde)と教皇グレゴリウス7世が聖女クリスティーナを信奉し、1078年5月10日に奉献したことによるという。
北側廊に、扉口があります。聖女クリスティーナの洞窟へとつながる扉口です。
北扉口には、再利用した大理石を使っているようです。
まぐさの彫刻は、大胆で力強い構図、大きな手と小さな足。柱の頂部には有翼の獅子と有翼の牛。
彫刻がびっしり。植物の下には、人が描かれています。
表現が豊かで、素晴らしいです。
この素晴らしい扉口を通ると、左側にチケット売り場があります。
聖体の奇跡の礼拝堂(Cappella del corpo di Cristo)
聖女クリスティーナの洞窟の手前に、礼拝室があります。
現地の案内掲示によると、祭壇は8世紀、フレスコ画は9世紀から13世紀。
柱身の表面に丸底の溝彫り(フルート)のある、紫色の4本の柱が、すごく立派です。
フレスコ画は、かなり広い部分に残っています。
撮影ができるのは、Cappella del corpo di Cristoまで、です。
聖女クリスティーナの洞窟とカタコンベ
聖女クリスティーナの洞窟とカタコンベの中(柵の中)は、写真も動画も、撮影禁止です。
ここは、3世紀末から5世紀の最初の20年間、Bolsenaの初期キリスト教共同体が使用していた墓地である。
ここには、復活を待ち望む多くのキリストの兄弟姉妹とともに、4世紀初頭におけるディオクレティアヌスの大迫害の犠牲となった、わずか12歳のBolsenaの殉教者、聖女クリスティーナが葬られている。
1880年、考古学的発掘調査が成功し、殉教者の埋葬地が発見された。
墓は、後期帝国時代の、石でできた台座に覆われた大きな石棺である。後面にはいびつな開口部があり、白大理石の骨壷に銘が刻まれている:
I-RQES/CP-BAT-X-M (†HIC REQUIESCIT CORPUS BEATAE XRISTINAE MARTYRIS –
「ここに祝福された殉教者クリスティーナの遺体が安置されている」
この骨壷の内部からは、14歳以下の人体の小さな骨が大量に発見され、ベレンガリオ王(Berengario、10世紀前半)の銀貨も見つかった。
いびつな穴、聖遺物、硬貨は、Bolsena、Sepino、Palermoに古くから伝わる「10世紀に2人の巡礼者が聖女の遺体の一部を盗んだ」という伝承を裏付けるものである(その後、聖女はPalermo、Sepinoなどの街の守護聖人となり、聖遺物はカンタベリー、サンティアゴなどにも運ばれている。)石棺から発見された聖遺物は、現在、Basilicaの新聖クリスティーナ礼拝堂に保管されている。
19世紀に発見されたカタコンベの一部には、近代的な入り口がある。地下墓地は、中央の回廊と、いくつかの側枝が入り口から離れるにつれて短くなるという、「クリスマスツリー」のような特徴的な配置になっている。
カタコンベは、あくまでもキリスト教共同体の墓地であり、迫害されたキリスト教徒の避難場所や隠れ家であったことはなく、むしろローマの法律で保護されていた。埋葬の際には、故人の遺体を麻布で包み、埋葬龕に入れ、生石灰をまいた。石灰が身体に取り込まれ、人は塵となった。
私は、怖々ながら(細くて薄暗い通路をたった1人で歩くんですよ怖いったらありません)、カタコンベに行きました。入り口近くは、垂直に高く、たくさんの埋葬龕が設けられています。聖女の近くに葬られたい人が多かったのかもしれません。
必要性に応じて掘削を深くしたため、初期は高い位置に埋葬された。これらの埋葬龕は、十字架、キリストのモノグラム、短い文章などで石膏に描かれた簡単な落書きで区別されるものもあれば、フレスコ画で彩られているものもある。
碑文もあります。ひとつだけご紹介すると:
メッティア・ナヴィジア(Mettia Navigia)に捧ぐ…良き妻、最も可愛い娘、最も尊敬すべき義娘である。彼女の誠実さ、謙虚さ、献身は、決して凌ぐことができない。彼女は34年4か月8日生き、夫とは20年4か月24日過ごした。彼女の夫は、この都市の財産の管理人であった。彼女は9月12日に埋葬されたが、これはヴァレンス(5回目)とヴァレンティニアヌスが領事であったときである(376年)。PTCS(聖人たちとともに汝に平安あれ)。
彼女の死が惜しまれたことが、1600年以上が経った今でも伝わってきます。
Collegiata di Santa Cristina。北扉口と聖体の奇跡の礼拝堂(Cappella del corpo di Cristo)が素晴らしく、初期キリスト教時代のカタコンベと聖女クリスティーナの墓に驚きます。
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