2022年12月4日(日)、三番目の目的地はCivita Castellana。Cattedrale di Santa Maria Maggioreです。
ここは、ファサードと身廊の装飾が素晴らしく、地下聖堂には美しい柱頭彫刻が並びます。祭壇は初期キリスト教時代(4世紀)の石棺の再利用です。
目次
Civita Castellana へ .
概要 .
平面図 .
ファサード、鐘楼 .
内観全体、床モザイク .
祭壇 .
Oratorio del Sacro Cuore di Maria .
地下聖堂 .
脚注(1) コズマ一族(Cosmati) .
アルファベットは、基本的に全てイタリア語です。
Civita Castellana へ
私はパロンバラ・サビーナ(Palombara Sabina)から北西に約56km、62分ほど運転して、町に着きました。13時頃のことです。
(この日の朝7時に宿を出発してから、すでに2か所を見学しつつ合計250km以上を運転していました。。。あと3か所だ、がんばれ、私。)
石畳のむこうにファサードが見えました。
こちらの教会は、東にファサード、西に後陣という、通常とは逆の配置です。
ファサードは、ポルティコがキラキラと輝きます。
概要
建物の中にリーフレットがありましたが、BeWeBに詳しくて新しい情報がありました。(BeWebはイタリアの教区や教会文化機関がその管轄地で行っている歴史的、芸術的、建築的、公文書的、書籍的遺産の体系的な調査作業を可視化する陳列箱です。)
BeWebについて私が一部を抜粋して太字で和訳します。
聖母マリアに捧げられた最初の大聖堂は、古代の異教神殿の基礎を再利用して7世紀から8世紀にかけて建てられた既存の地下聖堂の上に、9世紀から10世紀にかけて建立された。
大聖堂は12世紀後半に再建された。数十年をかけて、ファサードから始まり後陣に至るまで、慣習とは逆のパターンでゆっくりと拡大された。
大聖堂の拡張や再建は、後陣から始まりファサードに至る例を多く聞きます。ブリウド(Brioude)もそうでしたよね。
1736年から1740年にかけて、大聖堂は根本的な改築が行われた。柱と円柱で仕切られた三身廊から、六つの礼拝室を持つ一つの身廊になった。トラス天井は樽型ヴォールトに変更され、交差部にはランタンが設置された。また、大理石の手すり付き階段で身廊と接続され、両小後陣に礼拝堂が作られた。
1970年代、大聖堂の周囲と外装は、当初の設計を尊重しながら修復、補強された。
出典:Fabrizio Capanni, Giampero Lilli, Le cattedrali del Lazio. L’adeguamento liturgico delle chiese madri nelle regioni ecclesiastiche del Lazio. Milano, 2015
この後も、BeWebを引用するときは太字で書きます。
平面図
現地には平面図はみあたりませんでした。BeWeBにあった平面図です。西が上です。
さっそく、見学です。
ファサード、鐘楼
多色装飾が美しいファサードです。
入口の丸いアーチが特徴的なポルティコの建設は、刻印から1210年と推定される。鐘楼の建設も13世紀初頭にさかのぼる。
ポルティコのエンタブラチャー、扉口、バラ窓、床、内装は、コズマ一族のモザイク装飾で飾られ、その多くが今も残されている。
MAGISTER IACOBVS CIVIS ROMANVS CVM COSMA FILIO… MCCX
コズマ一族(Cosmati)(1) の第4世代、ヤコポの名前が堂々と刻まれています。
主扉口も、美しいです。
きらきら輝いています。
すごい技だし、貴重な材料を使っているように思います。これだけ鮮やかな色なので。
ライオンたちもかわいい。
大聖堂の中に入ります。
内観全体、床モザイク
まず、18世紀の改築による壁や天井が目に入ってきます。
でも、よく見ると、床モザイクが素晴らしい。
床モザイクに誘われるように、前に進みます。
いやはや、実に素晴らしい。
祭壇
交差部から正面を見上げると、由緒ありそうな祭壇が見えました。
現地に案内掲示がありました。太字で和訳します。
聖体顕示台は、4世紀の初期キリスト教の石棺に支えられている。七つのアーチの下には、福音的な場面が描かれている。
1. イサクの犠牲
2. ペトロの否定
3. 半身不随の人の癒し
4. ペトロに鍵が渡される
5. 出血した女性の癒し
6. カナの婚礼
7. イエスと蛇のたとえ
4世紀の石棺でしたか、これはまた、立派なものですな。
Oratorio del Sacro Cuore di Maria
私は、このoratorio(小礼拝堂)があることに気づかなくて、行かなかったんです。
平面図で14の位置です。左の小後陣から行くことができそうですよね。
リーフレットによると「(9世紀の浮き彫りが壁にあり、、、)ドルド・デ・トリヴィオ(Drudo de Trivio)とルカ・ディ・コズマ(Luca di Cosma)による二つのモザイクも、壁にある。これらは、かつて大聖堂の内陣障壁として使われていたものである。年代は1231年から1240年の間と考えられる。」そうです。
地下聖堂
地下聖堂は、身廊の端にある二つの階段を通って行くことができます。
柱頭彫刻が美しくて、幻想的です。
Cattedrale di Santa Maria Maggiore。ファサードと身廊のコズマ一族による装飾が素晴らしく、地下聖堂には美しい柱頭彫刻が並びます。祭壇は初期キリスト教時代(4世紀)の石棺の再利用です。
(1) コズマ一族(Cosmati).↩️
手元の小学館の伊和辞典によると、Cosmati: コズマ一族(12-14世紀、主として大理石装飾技術、モザイク技術に長じ、ローマを中心に活躍した)とあります。
つまり、コズマーティってかなり限定的なんです。
調べてみると、コズマ一族(Cosmati) は、主に4世代が活躍していました。
第1世代
テバルドの子、ロレンツォ(Lorenzo di Tebaldo)
第2世代
ロレンツォの子、ヤコポ(Jacopo di Lorenzo)
第3世代
ヤコポの子、コズマ(Cosma di Jacopo di Lorenzo)
第4世代
コズマの子、ルカ(Luca di Cosma)
コズマの子、ヤコポ(Jacopo di Cosma)
(ちなみに、ロレンツォ(Lorenzo di Tebaldo)の父テバルド(Tebaldo)も大理石職人でしたが、活躍したとは見なされていないようです。)
コズマ一族(Cosmati) の名前の由来はコズマ(Cosma)です。
「ローマの大理石職人たちが、しばしば誤ってCosmatiと総称される」と、Luca Creti 博士が2002年の短い論文『I «COSMATI» A ROMA E NEL LAZIO』で言っています。
同論文には、いくつかの一族の家系図が載っています。例えば:
famiglia di Paolo
famiglia di Rainerius
famiglia di Lorenzo(コズマ一族のことです)
famiglia dei Vassalletto
famiglia di Pietro Mellini
コズマ一族(Cosmati)ではない大理石職人がいっぱいいて、その職人たちもモザイク装飾を引き受け、同じような色大理石を使った幾何学模様の優れたモザイクを数多く残しています。
実は、彼らの作品は誤ってCosmatiと総称されるだけでなく、「コズマふうの(cosmatesco)」という形容詞で紹介されることも多くて、まぎらわしいのです。
私のブログでは、コズマ一族(Cosmati)の作品とはっきりわかるときだけ、コズマーティ(Cosmati)の言葉を使います。
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