2022年12月4日(日)、二番目の目的地はPalombara Sabina。Abbazia di San Giovanni in Argentellaです。
土曜日の午後(11月〜3月は15時〜17時、4月〜10月は16時〜19時)と、日曜日(10時〜13時)に開いています(2022年現在。復活祭、生誕祭、1月1日と8月15日を除く)。
ここは、真の傑作という名前がふさわしいチボリウムがあります。後陣も素晴らしいです。他にも、柱廊やフレスコ画、ローマ時代のイオニア式柱頭や石棺もあります。
見どころが多いので、2回に分けて書きます。
<1>:目次⇩の通り
<2>:フレスコ画と外観
目次
Palombara Sabina へ .
概要 .
平面図 .
1:西扉口 .
2:十字ヴォールトを持つ部屋 .
3:アトリウム .
4:身廊 .
5:地下聖堂の入り口 .
6:鐘楼の基部 .
7:障壁 .
8:チボリウム .
アルファベットは、基本的に全てイタリア語です。
Palombara Sabina へ
ラクイラ(L’Aquila)まではアブルッツォ州でしたが、ラツィオ州に戻ります。
Palombara Sabina から、12月8日までの4日間、ラツィオ州で16ヶ所を巡ります。
私はラクイラ(L’Aquila)から南西に約109km、82分ほど運転して、最後は山の中に分け入って枝や葉が車にかぶさってくる細い道を通りつつ、、、
畑や樹木に囲まれた教会に着きました。11時頃のことです。
概要
建物の中にリーフレットがありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
Palombara Sabinaの村からほど近い、コルニコラーニ(Cornicolani)山脈に挟まれた谷間に、修道院は建っている。
おそらく、場所の決め手となったのは「in Argentella」という名の由来にもなった泉の存在であろう。その地名は、渓谷を流れる水が銀色に反射することからついたようである。
教会は、紀元前2世紀か1世紀に建てられたローマ時代の建物跡の上にあるが、素朴なvillaであったのか、泉に関係する神殿であったのかを特定するのは困難である。
この建物の上に、現在では確認できない原始的な小礼拝堂が建てられた。5世紀から8世紀にかけてのもので、おそらくロンゴバルド人の支配下で洗礼者聖ヨハネに捧げられたものである。
11世紀から12世紀にかけて、この原始的な小礼拝堂は取り壊され、後陣を持つ現在のロマネスク様式の三廊式教会になった。
この時期は、修道院が最も栄華を極めた時期であり、100年以上にわたって修道院から多くの財産を奪っていたクレセンツィ(Crescenzi)家の、パロンバラ領主オッタヴィアーノ(Ottaviano)伯爵が、1111年に膨大な財産を修道院に返還した時期と重なる。
教皇パスカリス2世が、サビーナ(sabina)教区とティヴォリ(Tivoli)教区の間にある膨大な財産を修道士たちが再建できるように、権利を再確立することを決意し、直接介入したからである。
財産を取り戻した後は経済的な繁栄が続き、ベネディクト会の紋章をあしらった扉口のある教会のファサードをはじめ、いくつかの増築を行った。この扉口と教会との間には、四方を囲まれた小さなアトリウムがあり、おそらくポルティコが設置されていたと思われる。
11世紀から12世紀にかけては、鐘楼も建てられ、現在も修道院内に保存されている美術品も作られた。これらはすべて、バシリカ、特にバチカンのサン・ピエトロ大聖堂の装飾と同じで、教皇庁の権力と帝国に対する支配を称えるという明確な意図があった。
1286年、後のローマ教皇ホノリウス4世となるヤコポ・サヴェッリ(Jacopo Savelli)枢機卿は、この修道院をグリエルモ会(Guglielmiti: Ordine di San Guglielmo)に委ね、一連の工事を行い、外観を大きく変えた。アトリウムを覆い、入口を高くし、右側通路の上に長い回廊を設けてファサードの部屋と谷に向かって建てられた修道院の空間をつないだ。
1445年、グリエルモ会の修道士たちはこの修道院を放棄した。修道院は聖職給を受ける修道院長たちに託されることとなり、衰退の一途をたどった。
サビーナ(sabina)の枢機卿の中で最後に整備を命じたのはロレンツォ・リッタ(Lorenzo Litta)である。1815年に修道院を訪れ、半廃墟のような状態であることを知った。
19世紀末、ボローニャの画家エネア・モンティ(Enea Monti)の関心によって、この修道院は再び学術的な関心の中心へと戻り、再び修復が行われた。
この後も、リーフレットを引用するときは太字で書きます。
平面図
リーフレットに平面図がありました。東が上です。
さっそく、見学です。
1:西扉口
(赤い数字は、平面図に示されている番号です。)
西扉口は、質素です。
ローマ時代の2本の大理石の柱が、ローマ時代のレンガでできたアーチを支え、その中央には紋章が描かれたルネッタがある。ギリシャ十字、四つの腕と同じ数の円盤が交互に配置された、ベネディクト会の紋章である。
簡素でかわいい紋章です。
2:十字ヴォールトを持つ部屋
十字ヴォールトを持つ部屋は、ロマネスク教会とほぼ同時代のもので、拝廊(nartece)を形成していた。左側には、3世紀後半に作られた、2頭のライオンが2頭のイノシシに噛み付いている見事な石棺がある。
3:アトリウム
アトリウムは、三連のポルティコのような形。
この空間にも石棺があるが、これは前のものよりも後のものである。
二つの窓と身廊に通じる開口部のある壁は、かつてロマネスク教会のファサードであった部分の下側である。開口部の縁には、扉口の凹みが残る。
身廊に行きます。
4:身廊
身廊から東を向きます。
三身廊、三後陣。
身廊は、左右ともに、再利用された4本の円柱と両側の2本の角柱に支えられたアーチで区切られています。
興味深いのは、セウェルス朝時代(età severiana)のイオニア式の柱頭で、その形は中世の他の二つの柱(右側の最初の2本)に再現されている。
セウェルス朝時代は、2世紀末から3世紀初めです。
これらのイオニア式の柱頭、すごく威厳があって、かっこいいんです。
5:地下聖堂の入り口
北側廊から、内陣の下にある地下聖堂に降りられます。
1970年代まで、地下水があった。この水は奇跡の水とされ、Palombaraの人々は洗礼者聖ヨハネの生誕祭(6月24日)には、この水に身を浸し、あるいは飲んで、御利益を得ようとした。
6:鐘楼の基部
北側廊には、鐘楼の基部があります。
内部には小さな後陣があり、11世紀から12世紀にかけて描かれた大天使ミカエルのフレスコ画で飾られている。
私はうっかりして、現物をみなかったです。
7:障壁
南側廊には、Centuriusによる大理石の障壁があります。
1170年に制作されたもので、まぐさの部分に制作者の名前が入っている。
また、北端の柱の基部には、ローマ時代の碑文が見られる。二つのスラブを飾る貴重な大理石のモザイク(白大理石、緑大理石、赤色斑岩)も素晴らしいものである。
8:チボリウム
内陣中央、石造りの祭壇の上には、真の傑作であるチボリウムがそびえている。
11世紀のものとされている。
大理石を再利用した4本の柱の上に、4本の化粧漆喰の柱頭が同じ素材の板を支え、
その板は表面全体が連続的かつ均質なデザインで網目状にいくつも組み合わされたリボンで飾られており、弓形のまぐさには複数の結び目が絡み合った模様が描かれている。
私は圧倒されて息をのみました。
美しい。
真の傑作、って言葉がぴったりです。
Abbazia di San Giovanni in Argentella、次回に続きます。
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