2022年8月7日(日)の最初に訪れたのは Escurolles 。Église Saint-Cyr-et-Sainte-Julitte です。
ここは、大通りから横道に入ると、隠れるように佇む、ロマネスク様式の柱頭と壁画にいろどられた教会が現れます。
Escurolles へ
私は宿から南東に18分ほど車を運転して、不思議な村につきました。9時半頃のことです。
何が不思議って、教会が目立たない場所にあるんです。
多くの村では、村いちばんの通りに面して教会があり、村に入った途端に教会に行き当たります。
でも、この村は違います。
村いちばんの通り(Rue de la Poste)を歩きながら教会を探すと、こんな表示があります。
教会は目立つところにあるはず、という先入観があった私は、表示を見過ごして、ずっと向こうまで行きました。なんかおかしいぞ?となってスマホで地図を確認しながら戻って来たわけで。
教会に向かう横道(Impasse de l’Église)を進むと、ようやく教会に行き当たりました。
教会に向かう道が南への上り坂で、そのさらに南に城があります。
平地が発展する一方で、かつての防御のつくりがそのまま残っているのかな、と思います。
Église Saint-Cyr-et-Sainte-Julitte の概要
教会の中に案内パネル(参考文献は以下)がありました。一部を抜粋して太字で和訳しつつ、私が撮った写真を載せます。
<< Les Église de France : ALLIER >> 1938
Marcel GENERMONT
旧クレルモン教区の小教区教会で、983年から984年頃、おそらくブルボン家のアルシャンボー1世の妻によってクリュニー修道院に寄贈された。
12世紀初頭にはトゥルニュ修道院が所有権を主張したが、1108年にその権利を放棄した。1189年に尊厳王フィリップ2世が保護すると、完全にクリュニーに属することとなった。
(1789年まで、首席司祭職はクリュニー大修道院長に属した)。
現在の建物は、ロマネスク期に何段階かで建設されたもので、身廊とそれを挟む二つの側廊、わずかに突き出た交差部、半円形の後陣、同じプランの二つの小後陣がある。
身廊と側廊の西側にはポーチがあった。12世紀前半に作られたものである。1908年に取り壊され、北側の2本の柱(鐘のある場所)が残っているのみである。
西扉口のアーチは、円柱の上に乗っている。
円柱には柱頭がある。
持ち送りがコーニス(軒の水平の出っ張り)を支えている。
主後陣の三つの窓のアーチの周りには、菱形が連なっており、壁面に水平に続き、シャルルーやジェンザの教会と同様に、つけ柱の周りに輪をかたち作っている。
近代の改変や、内壁の漆喰による覆いなどのため、調査は困難である。しかし、十字形の身廊の橋脚、支柱と壁は、後に身廊の屋根を支えるために補強されたが、11世紀か12世紀の初めの建築に属していると考えることができる。
12世紀後半には、交差部、クワイヤと後陣が建築された。
クワイヤを覆う樽形アーチは、柱の上に落ちるアーチを挟んで、後陣の四分球アーチに連絡している。
クワイヤの柱頭には、人物、戦士、動物、幻想的な花、一つの聖杯から水を飲むグリフォンが描かれている。
人物
戦士、動物
一つの聖杯から水を飲むグリフォンがどれだかよくわからなかったのですが、これかも。
かつてはここに鐘楼があり、1760年6月4日の聖体顕示の前夜に雷が落ちたという。数年前、後陣の天井を修理しているときに、威厳あるキリストを表したフレスコ画の一部が発見された。
現地にあった案内(参考文献は以下)によると、この壁画は12世紀のものだそう。
<< Histoire de la peinture murale dans l’Auvergne au Moyen Age >> 1983
Anne Courtillé, Maître assistant à la faculté de Clermont
Église Saint-Cyr-et-Sainte-Julitte の内観:柱頭彫刻
クワイヤの近く、交差部にも印象的な柱頭彫刻があります。
まるで、ひょっとこ、ですよね。
こちらは、まるでキュビズムのデザインのようです。
Église Saint-Cyr-et-Sainte-Julitte。ロマネスク様式の柱頭と壁画が素晴らしい。
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