2022年8月2日(火)、二番目に訪れたのは Souvigny 。Prieuré Saint-Pierre et Saint-Paul です。
Souvigny へ
私はシャップ(Chappes)から北東に19分ほど車を運転してAirbnbに戻り、昼食をとった後、さらに東に15分ほど車を運転して、にぎやかな村につきました。12時頃のことです。
にぎやかだった理由は、まつり。
吟遊詩人と曲芸師のまつりが開催中だったんです。
中世っぽい街並みが映えて良い企画だなと思いました。
Prieuré Saint-Pierre et Saint-Paul の外観
15世紀と18世紀に建築された部分が多いです。
外観でロマネスク建築が残るのは鐘楼と、旧小修道院の建物の北壁くらい。
Prieuré Saint-Pierre et Saint-Paul の外観:柱頭彫刻
教会内にあった案内シートによると、旧小修道院の建物の北壁に11世紀のロマネスク様式の柱頭彫刻があります。(案内シートを見て「そうなの?」と探しに出ましたよ、私。)
え?どれ?ってなりますが、多分、これと
これです。
Prieuré Saint-Pierre et Saint-Paul の概要
教会の中に、案内シートがありました。一部を抜粋して和訳します。
小修道院の歴史は、916年、ブルボン家の最初の祖先として知られるアイマールがスヴィニーの地をクリュニーに与えたことに始まる。この寄贈により、クリュニー付属の小修道院がブルボンヌに設置されることになった。
クリュニー修道院の創立は910年と言われていますから、スヴィニーは、それから6年後に寄贈されたことになります。クリュニーと一緒に発展したのでしょう。
994年3月11日、重要な出来事が起こった。クリュニー第4代修道院長である聖マヨルスが、この地を訪れている間に亡くなったのである。マヨルスは、現在の建物の前身である聖ペトロ教会に埋葬された。スヴィニーは急速に重要な巡礼地となり、多くの奇跡が報告されるようになった。
1049年、マヨルスの後任の第5代修道院長オディロもスヴィニーで死去した。彼はマヨルスと同じ石棺に入れられ、教会の身廊の中央に埋葬された。聖ペトロ教会の初期の状態については、ほとんど知られていない。オディロが建てたのは一身廊の簡素な教会であったと思われるが、その後すぐに側廊を持つ教会に改築された。
12世紀から13世紀にかけて、教会は巡礼者を収容するために拡張された。身廊にはさらに側廊が追加され、クワイヤは東に拡張され、五つの放射状祭室が設けられた。また、ファサードの上にある塔が、12世紀(右側)と13世紀(左側)に建てられた。
15世紀には、朽ち果てた教会の修復が行われた。ファサードは、塔のすぐ下から地面まで、15世紀再建されたものである。
フランス革命のとき、わずかに残っていた修道士も散り散りになってしまった。1990年、聖ヨハネ共同体の修道士たちが本来の姿に戻したのである。
教会が修復されたのはごく最近のことなんですねえ。
フロアプラン
教会内の案内シートにフロアプランがありました。北が上です。
東西に長い五廊式、放射状祭室まであり、かなり巨大です。
Prieuré Saint-Pierre et Saint-Paul の内観:全体
教会の中の、全体の様子です。
北側廊
南側廊
五廊式なので、側廊は南北に二つずつあるんですが、身廊に近い方の側廊はすごく狭いです。
Prieuré Saint-Pierre et Saint-Paul の内観:柱頭彫刻
教会内にあった案内シートによると、ロマネスク期(11世紀〜12世紀)につくられた柱頭彫刻は、11あります。緑色で示されています。
それら11のうち、1と2は旧小修道院の建物の北壁にあります。(「Prieuré Saint-Pierre et Saint-Paul の外観:柱頭彫刻」でご紹介しました。)
次回、内部に残る九つのロマネスク期の彫刻をみます。
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