2019年12月の旅行七日目、最後の目的地はBologna。パルマから乗った電車を降り、一泊する宿にチェックインして荷物を置いてから、徒歩で見学します。まず向かうのは Basilica di Santo Stefano 。
Basilica di Santo Stefano とひとくちに言いましたが、この場所は Le Sette Chiese(七つの教会)とも、Complesso di Santo Stefano (聖ステファノ教会群)とも呼ばれます。
七つの教会がひとつの場所に混在していた変わった場所でして。
七つあった教会は今では四つになりましたが、4世紀や5世紀にさかのぼる教会がひしめきあい、幾何学模様がうつくしい中庭や回廊が残ります。
つまり、必見の場所。
聖ステファノ教会群については、以下の通り、7回に分けて書きます。
<1>では聖ステファノ教会群の建物と歴史、
<2>ではChiesa del Crocifisso、
<3>ではChiesa del Santo Sepolcro、
<4>ではCortile di Pilato、
<5>ではChiesa della Trinità o del Martyrium、
<6>ではChiesa dei Santi Vitale e Agricolaの内観、
<7>ではChiesa dei Santi Vitale e Agricolaの外観、
についてです。
聖ステファノ教会群の建物
三つの主要な教会のファサードが、聖ステファノ広場のある、西に向いています。
もっとも大きい第一の教会(Chiesa del Crocifisso)は、西に向かって最も進んでいます。第二(Chiesa del Santo Sepolcro)の教会は八角形のプランで、第三の教会(Chiesa dei Santi Vitale e Agricola)は小さなプランです。
第一と第二の教会の後陣の東には二つの回廊(南に大きな回廊、北に小さな回廊)があり、続く第四の教会(Chiesa della Trinità o del Martyrium)は、二つの身廊が典礼軸に対して横向きに配置された非常に特殊なプランです。
この六つの要素(四つの教会と二つの回廊)の周りには、追加された礼拝堂と修道院の作業場があります。
かつては、八角形の教会が聖ステファノの称号を持ちました。そして、それぞれの教会は、改築や改造、遺物の移転などが行われるたびに、その称号を変えました。
現在では、特定の教会が聖ステファノの称号を持つのではなく、複合施設全体がそう呼ばれます。
聖ステファノ教会群の歴史
現地に案内がありました。
かつて、この場所にはイシスに捧げられた異教の神殿がありました。
その跡地に立つこの教会群の歴史は、393年に始まります。
聖アンブロシウスがミラノからフィレンツェに向かう途中、当時ミラノ大司教区に属していたボローニャに立ち寄り、司教と一緒に、ボローニャの最初の殉教者と信じられている2人の墓を墓地で発見したのです。
2人の殉教者は、聖ウィタリスと聖アグリコラ。
ウィタリス(伊:San Vitale)は、金持ちの地主アグリコラ(伊:Sant’Agricola)の使用人で、キリスト教を信仰していたウィタリスが主人のアグリコラを改心させ、のちに2人は殉教したと言われています。
2人の殉教者の遺体は、墓地から現在の地に移されて小さな礼拝堂が建てられ、キリスト教徒の崇拝を受けることとなりました。
本格的な教会の建設は、第8代目の司教として432年から450年まで統治し、のちにボローニャの守護聖人となった、聖ペトロニウスが行ったとされています。
この教会群は、キリスト教信仰の起源とボローニャの教会の起源を証言する場所であり、この共同体の最初の殉教者の遺体が保存され、聖ペトロニウス自身が埋葬されることを望んだ場所でもあります(実際、1141年に彼の遺体がこの場所で発見されました)。
ビザンチン時代、ロンバルディア時代、フランク王国時代、ベネディクト会修道院の創設、ロマネスク様式への改築、ルネッサンス全盛の時代、バロック様式への改築、近代の改築、、、
なんだかキリがないことに気づきました。
聖ステファノ教会群の歴史については、これくらいにしましょう。
次回、Chiesa del Crocifisso を見ます。
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