2019年12月の旅行六日目、四番目に目指すはTalignano。フォルノヴォ・ディ・ターロ(Fornovo di Taro)から北東に約10km、車で約17分の道のりです。ここでの目的は Pieve di San Biagio 。
Talignano については、以下のように、三回に分けて書きます。
<1> Talignano と Pieve di San Biagio の概要
<2> 教会内部
<3> 教会外部(西扉口のロマネスク彫刻)
Talignano とは
タリニャノは丘の上の小さな集落です。
人口は約60人。
草原、森、小川、田舎道そして丘の上からの美しいパノラマが訪れる人を魅了します。土壌は肥沃で、春になると色とりどりの花びらが広がる豊富な果樹園があり、キジ、ウサギ、鹿が生息する森があります。豊富なキノコがあり、列をなすブドウ畑からは、美味しいワインが作られます。

タリニャノという地名(Taloniannum)が最初に登場するのは、991年3月8日付の文書です。おそらく、その頃のタリニャノは森の中にあり、羊飼いの小屋がいくつかあるだけでした。
ここにフランチジェーナ街道(Via Francigena)の分岐ルートができ、当時頻繁に起こっていた洪水や氾濫の際に役立っていた、と言われています。
Pieve di San Biagio の概要
聖ブラシウス(伊:San Biagio)に捧げられた礼拝堂の存在が初めて言及されたのは12世紀です。
この礼拝堂は、シトー会(フランス系の修道会)が運営していました。
修道院は、ホスピスを併設していたため、フランチジェーナ街道を往来する多くの旅人や巡礼者の休憩所となりました。
何世紀にもわたって、この教会は何度も改築されましたが、1935年に、フェッルッチョ・ボッティ(Ferruccio Botti)神父の発案により、もとの構造に近い状態に戻されました。
この地域の特徴を持つ、素晴らしいロマネスク彫刻が、西扉口にあります。
このロマネスク彫刻は、ボッティ神父が元の場所に戻したもの。
過去の改築の際に西扉口からとりはずされ、目立たない場所におかれていたほか、数年にわたって地域の農家の人たちによってパンを焼くのに使われていたようです。
私としては、聖ミカエルの鼻が壊れている他には、たいして損傷がないことが、ありがたい。

この浮き彫りは「魂の計量」が描かれていますが、フランスでは広く見られるものの、イタリアでは数える程しか見られない、珍しいテーマです。
聖ブラシウスとは
ヤコブス・デ・ウォラギネの書いた『黄金伝説』の記述によれば、聖ブラシウスはカッパドキア地方の町、セバステの司教でした。キリスト教徒迫害がたいへん熾烈になったので、洞窟に逃げざるをえなくなり、隠者の生活をおくります。
鳥たちは、彼の洞窟に食べものをはこび、野獣たちも、仲むつまじく集まってきて、彼が手をのせて彼らを祝福してやるまでは、彼のもとを立ち去ろうとしませんでした。そのなかの一匹が病気になると、すぐに彼のそばにやってきて、彼に健康をとりもどしてもらいました。
この地方の総督が、洞窟の男とすべてのキリスト教徒たちをひっとらえてくるよう命じると、主がブラシウスのまえにあらわれ、「立ちあがって、わたしにあなたの犠牲をささげなさい」と言われます。彼は、総督の命令で彼を召し捕らえにきた騎士たちといっしょに出かけました。
彼は、道々、騎士たちに教えを説き、いくつもの大きな奇跡をおこないます。
ある婦人が、魚の骨をのどにひっかけて死にかけている息子をつれてきて、助けをもとめました。聖ブラシウスは、両手を少年に置いて、この少年が、さらにそのほかブラシウスの名において治癒を願うすべての人びとが健康をとりもどすようにと祈ります。すると、少年はたちまち元気になりました。
ある貧しい寡婦が、豚を一頭だけもっていたが、その豚を狼にさらわれました。彼女は、聖ブラシウスに、豚をとりもどしてほしいと懇願します。彼は、にっこり笑って、「悲しまなくてもよろしい。豚をとり返してあげますから」と言いました。と、たちまち狼があらわれて、寡婦に豚を返しました。
町に着くと、総督からさんざん拷問されて改宗を迫られたのち、彼はついに首をはねられ、殉教しました。3世紀頃のことです。
聖ブラシウスは病気に対する守護聖人として信仰されています。
教会を訪問
細い田舎道をたどると、教会がみえました。

上の写真の「P」という標識に従って左折すると、駐車場があります。
私は車を停め、歩いて西扉口の前にもどりました。
あらかじめ電話で約束してあったパトリツィア(Patrizia)さんに会うためです。

次回、教会内部を詳しく見ます。
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