2019年12月の旅行六日目、三番目に目指すはFornovo di Taro。バルドーネ(Bardone)から北に約10km、車で約14分の道のりです。ここでの目的は Pieve di Santa Maria Assunta と昼食。
Fornovo di Taro については、以下のように、四回に分けて書きます。
<1> Fornovo di Taroと Pieve di Santa Maria Assunta の概要
<2> 柱に残るロマネスク彫刻
<3> 内陣に残るロマネスク彫刻
<4> ファサードに残るロマネスク彫刻
Fornovo di Taro とは
フォルノヴォ・ディ・ターロ(Fornovo di Taro)は「ターロのフォルノヴォ」という意味で、ターロはこの町を流れる川の名前です。フォルノヴォという地名はおそらく古代ローマ時代の「フォーラム」が関係していると考えられていて、その時代から重要な場所であったことを示しています。
地理的な位置は、交通の中心地となることを運命づけられていたようです。三つの谷が合流する場所であり、また、(ミラノ、フランスに通じる)ピアチェンツァと、(マントヴァ、ドイツに通じる)パルマからの道が平野部で合流する地点で、アペニン山脈を越える重要なルートの起点の一つなのです。
東西からエミリア街道に到着した人々にとって、フォルノヴォは峠に向かう前の最後の宿場であり、食料や、商人や裕福な旅人にとってはラバを調達する場所でもありました。アペニン山脈から下ってきた人々にとっては、平野部への出口であり、何世紀にもわたって、豊かなポー渓谷地域との最初の接点でした。
町の重要性は、教会の重要性と一致していたことでしょう。巡礼者のためのホスピスや政治的権力を持っていた中世の教会の役割を考えると、その重要性は明らかです。
Pieve di Santa Maria Assunta の概要
西暦854年には記録が残っているパルマ教区で最も古い教会の一つです。この教会は当時すでにピエヴェ(洗礼を行うことができる教会)の地位を得ていました。
最初の建物はそれ以前に建てられたと考えられ、ロンゴバルド時代の可能性がありますが、この最初の教会の痕跡は残っていません。
最も古くて、今でも遺構が確認できる建物は、1050年頃のものと考えられています。この教会が、その後に様々に増改築されていきます。
重要な増改築が最初に行われたのは1200年頃でした。
当時、ローマへの道を往来する人々が増え、フォルノヴォの重要性が高まったことから、ファサードの前に(教会と同様に)三つの身廊と二つのベイを持つポルティコが作られました。これは宿泊施設への入居を待つ旅行者のシェルターとして使われました。
後にポルティコの上に部屋が作られ、管理人の住居として使われました。さらにその後、ポルティコは外壁で閉じられ、ナルテックスになりました。
1200年頃につくられた重要なものは、壮大な彫刻が施されたロマネスク様式の説教壇です。上のフロアプランの中で、赤で示されている場所に置かれていたと考えられています。理由は不明ですが、この説教壇は16世紀に解体され、ばらばらに保存されています。
16世紀から18世紀にかけて側廊に複数の祭室がつくられ、18世紀には全体がバロック様式に大改築されました。
1927年から1942年にかけて、ロマネスク様式の外観に改築されました。この改築のときにロマネスク様式の説教壇の一部がファサードに埋め込まれ、風雨にさらされて急速に劣化しています。
良かれと思ってやったのでしょうが、なんとも残念なことです。
教会を訪問
私はターロ川にかかる橋のたもとにある駐車場(Piazza Mercato Fornovo)に車を停め、Pieve di Santa Maria Assunta へ向かいました。
このとき時刻は11:30でしたから、教会はまだ開いているはず。
良かった!開いています。
教会の中は増改築されて複雑なつくりになっています。
ファサードから入ると、二つ目の柱のところまでは天井が低くなっていて二階建てになっています。1200年頃にはポルティコだった場所で、現在はナルテックスになっています。
一つ目の柱の位置から後陣を眺めるとこうなっていて、
二つ目の柱の位置まで進んで後陣を眺めると、太い柱と木の天井がとても美しい。
さらに、祭壇の前まで進んでファサードを振り返ると、ナルテックスの二階部分が見えます。
この教会の見所はなんといっても、ロマネスク様式の彫刻で、もともとは説教壇だったものが分解されてあちこちに配置されています。
例えば、内陣。
次回、内陣のロマネスクを詳しく見ます。
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