エンゴラステルス(Engolasters)

2019年9月の旅行九日目、最初の目的地はEngolasters。泊まっている宿から東に約5km、車で約7分の道のりです。

この日に訪ねる場所は、アンドラ公国の、六つの予定(でしたが、最後の予定地を訪ねた後で一つ追加して七つになりました、詳細は後ほど)。

九日目、9月12日(木) アンドラ公国
35. エンゴラステルス(Engolasters)
36. エル・ビラル(El Vilar)
37. エンカム(Encamp)
38-39. サンタ・コロマ(Santa Coloma)
40. サン・ジュリア・デ・ロリア(Sant Julià de Lòria)
急遽追加:パウ(Pal)

グーグルマップの画像を編集しました。赤い線の範囲がアンドラ公国。

私はアンドラ初めてだったので、調べました。

外務省のHPによると、アンドラは面積468㎢、人口76,177人、言語はカタルニア語(公用語),スペイン語,ポルトガル語,フランス語。通貨はユーロ、主要産業は観光業,サービス業,流通産業,金融業となっています。

面積も人口も愛媛県宇和島市くらい(宇和島市HPによると面積468㎢、人口73,785人)。アンドラは、独立国としては、かなり小さめ。

略史(外務省のHP、原文のまま)をみると、

(1)10世紀頃,宗主のウルヘル司教と,司教から封土としてアンドラを与えられていたフォア伯爵との間で統治権をめぐる争いが発生。その後,1278年に対等の封建領主権(徴税権,裁判権,徴兵権)を共有する「対等の宗主契約」を結び,両者はアンドラの共同領主となった。
(2)共同領主の地位は,司教側では現在に至るまで代々ウルヘル司教に引き継がれているが,フォア伯爵側では当時のフォア伯爵がフランス王(ブルボン朝初代のアンリ4世)として即位して以来,フランス国王に引き継がれ,フランス共和国となった後はフランスの国家元首(大統領)に継承されている。
(3)1993年2月,新憲法がアンドラ国会で可決,同年3月に住民投票で承認され,アンドラは国家として独立した。フランス及びスペインは同年6月1日に,アンドラ公国を主権国家として明示的に承認した。ただし,アンドラの国家元首は引続きフランス大統領とウルヘル司教(共同元首)。また,同年7月には,アンドラの国連加盟が加盟国の全会一致で認められた。

そういえば、私の滞在中に、フランスのマクロン大統領が訪問したんです。空の上ではヘリコプターがブンブン飛んでるし、大統領は今ここを訪れてます!の報道一色だし、熱い歓迎っぷりに驚きました。

日本で言うと、天皇陛下の訪問か?ってくらい。

それは、さておき。

司教が宗主だったこともあって国民のほとんどがカトリック教徒だし、ちょうど司教が力を持ってた時期がロマネスクの時代と重なるし、で、それはそれは珠玉のロマネスクがあちこちに残ってるんです。

そして、事前に自治体に連絡すると即レスがあり、担当者が来て教会の鍵を開けてくれるだけで無く、英語でガイドしてくれるとの内容。

アンドラ、最高!!

というわけで、気分も晴れやかに、お伝えします。

最初の目的地 Engolastersでの目的は、Sant Miquel d’Engolasters。

つづらおりの細い道を登ると、見えてきました。

車の中から、教会の南側が見えました

ガイドとの待ち合わせは、朝10時に現地で、と約束していました。9:40に到着し、まずは、早朝の澄んだ空気と角度のある陽の光の中で教会を眺めます。

教会の北側。背後の山に陽光が当たります。

この場所、とても眺めが良いんです。

教会から西方向の眺め

YouTubeに動画をアップしました。

楽しく撮影しているとあっという間に10時になり、ガイドのイツィアル(Itziar、女性のファーストネームです)が流暢な英語で案内を始めてくれました。彼女は Ministeri de Cultura の職員です。(ガイド終了後、お別れの挨拶のとき、礼金を差し上げようとしたら、それは無用ですと笑顔で断られちゃいました。)

イツィアルによると、イベリア半島を圧迫していたイスラム教徒の勢力を討伐するため、カール大帝がピレネー 山脈の南に進軍し、辺境領を設置したのが8世紀末。

この教会の建物に使われている大きい石は、サンタ・コロマ(Santa Coloma d’Andorra)と同じ特徴が認められ、教会の歴史は8世紀〜9世紀頃に遡るとも考えられています。

11世紀から12世紀にかけて、この地にはセウ・ドゥルジェイ(Seu d’Urgell)の司教が最も力を持ちました。教会建物の最も古い部分である身廊と後陣がこの頃の建築と考えられています。そして、1160年頃ロマネスク様式の壁画が描かれました。

鐘楼の建築は12〜13世紀。この鐘楼は教会とのバランスが大変うつくしく、鐘楼の屋根の下に人の顔があるのも、この教会の特徴です。

16世紀にかけてポルティコが増築され、教会内部は宗教のために、ポルティコは社交のために使われていました。

1900年頃には、教会の建物が羊飼いに使われていたことがわかっています。その後、壁画はバルセロナのカタルーニャ美術館に移されました。

1965年の修復工事によって道路側に扉口と窓が造られましたが、扉口は1980年代の工事で塞がれました。その後、ロマネスク様式の壁画の複製が描かれました。

現場写真で見てみます。

教会は一身廊、一後陣。南側にポルティコがあります。

後陣が見える角度から

南東側

後陣には、ロンバルディア帯

東側(後陣)

北にまわると、鐘楼。

北東側

鐘楼の屋根の下に、人の顔。

見づらいですが、中央部、ロンバルディア帯の下に人の顔

鐘楼に人の顔があるのは、サンタ・コロマ(Santa Coloma d’Andorra)と共通の特徴だそう。この日の午後に訪問する予定ですから、行ったら見てみます。

西側は、道路に面していて、扉口はありません。

西側。1965年に造られて、その後にふさがれた扉口のあとがあります。

主扉口は、南のポルティコのところ。

ポルティコの中

鍵を開けてもらいます。

簡素な主扉口(南扉口)

中に入ると、想像した通り、こぢんまり。

西側を背にして、後陣を向く。後陣の壁画は複製。

祭壇が(整えられた切り石じゃなくて)ただの石なの、好感度たかめ。

素朴な木製の天井だって、私の好きなタイプです。

後陣を背にして西側を向く

イツィアルと私が話している様子を夫が撮ってました。教会のこぢんまり感が分かりやすい。

2人とも身長160cmくらい、コンパクトな後陣です。

12世紀のロマネスク様式の壁画のオリジナルはバルセロナのカタルーニャ美術館に収められています。

Museu Nacional d’Art de Catalunya, Barcelona で、2019年9月5日に撮った写真をご紹介。

カタルーニャ美術館に移設されている壁画(12世紀)。

中央には、荘厳のイエス。

カタルーニャ美術館に移設されている壁画(12世紀)部分。

イエスの向かって右に、四福音書記者のシンボルのうち、ヨハネ(鷲)とマルコ(獅子)。

カタルーニャ美術館に移設されている壁画(12世紀)部分。

イエスの向かって左に、四福音書記者のシンボルのうち、マタイ(翼の人)とルカ(雄牛)かと思ったら、、、

カタルーニャ美術館に移設されている壁画(12世紀)部分。

マタイ(翼の人)の場所に描かれているのは、ドラゴンをやっつける聖ミカエル。

この教会はSant Miquel d’Engolasters、聖ミカエルに捧げられている教会ですから、ミカエルをマタイ(翼の人)と同化させて、大きく登場させたらしい。

カタルーニャ美術館に移設されている壁画(12世紀)部分。

鮮やかな色彩と、柔らかな表情が、とても印象的な壁画です。

教会の北側

Sant Miquel d’Engolasters、素晴らしい12世紀の壁画はバルセロナのカタルーニャ美術館に移されていますが、現地の教会では特徴的な鐘楼と後陣が素朴なうつくしさを今も伝えてくれます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です